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いちばん困っている人のことが、表に出にくい理由

良くなったケースや確信の持てる経験は、やはりさまざまな人に知ってほしくて発信したくなるものですが

なかなかに良くならないとか、しんどさが続くケースは、人に言えないこともいろいろあります。

やはり話したところで情けなくなったり、相手に嫌な思いをさせたくなかったりするし、
プライバシーも守りたい。
守りに入っている間は過敏にもなりがちです。

つまり困ってる人達のことは表に出てくる数が少なくて当たり前で、うまくいかないケースを出てくるとしたら
相当なマゾや、頑張り屋さんが出していますよね。←たまにやる🤣

子ども時代の私は、不登校してた妹の存在は
無いものにしたかったぐらいでした。

弱い姉でしたが、そうさせた環境が今ではよく見えます。

その溝を埋めるものが、家庭向けの当事者の会や、ピアサポーターのいる共感の場なのではないかなと思います。

今は当事者もかなり複雑化しているので、
落ち込む必要がなかったり、選択肢を選んでいける場合は必要ないと思いますが、
親が繋がれない、孤独を強めている場合には難しさがあります。

うまくいかないときには、
その事実や現実を受け止めるためだったり
抑え込むものを出すためだったり
他のケースを見ても「自分は」と過度に比べないようにするためだったり(参考はいいと思う)
家族や外部へ、正常な依存ができるように切り替えるためだったり

やり方ではなく、そういう受け入れを見つめ直す時間が必要だと思います。

傷の舐め合いとよくいいますが、それはバカにしていい言葉ではないなぁ、と思います。
カッコ悪さを曝け出す、それだけで人は成長できたりもしますね。そしてもちろんお互いの良い部分も見せ合いたい。


不安ごとを家族以外に言えたことで、
どれだけ慢心だったのかを気づいたことが私にはあります。 
私がご近所や学校やリアルな繋がりを改めて(見栄なく)作っていこうとしたのは、それ以降です。


最初はそこまで必要なかった繋がりや、助けが、経験として積み重なることで、子どもの想いがようやく見えてきました。
一人で出来るはずなのに甘えてくる、それこそ「困った」を言いたい時。
そこを家族や誰かに言えるようになってほしいと、切実に感じました。

そして、
不安や怒りの感情ほど、命に寄り添った感情はないとも感じるようになりました。

悪い感情って思われがちだから、出せない人もいると思う。私は、怒りは大人になってから出せるようになりました。

もちろん、当たり散らすとか、傷つけるのは悪いと思う。
でも感情そのものや、ただ感じることに、罪はないですよね。

感情の出す場所が、ほんとうに無いのだと。
そして子ども時代には特に必要なことなのだと思いました。

同時に、何かがうまくいったり幸せを感じたら
誰に遠慮することなくちゃんと喜び、幸せに浸る権利もある。

日本人は周りを読みすぎるから、疲れますね。
勝手に読んでしまうことも多々。
だから自分に戻れる空間は、なるべく多く作りたい。

そういう意味での余白、自分時間を惜しまないこと。

大切な人にとっても影響が出ますし、今は意識して増やすようにしています(^^)




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