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高貴なる人 第4話

4.魂を高める方法

 経済的な不安はもはやなかった。加えて彼は女という性を征服したつもりになっていたので、性に対する不安もなかった。この時点で彼は、すべての不安から解放された、と思った。何もかも手に入れた。もう怖い物知らずだった。
 彼は持ち前の論理的思考力を駆使し、次に目指すべき目標を設定することにきめた。目標は段階的に立てるといい。容易に実現可能な目標を少し先の未来に設定し、実現が難しそうな目標を少し遠い未来に置く。こうすることで、簡単な目標を達成して成功体験よる自身を得ながら、少しずつ困難な目標へと近づいていくことができるのだ。この方法を使えば、どんな目標も理論上は成し遂げることができる。いや、彼の場合は、経験上は、と言うべきだろう。彼はあらゆる状況を、目標を立てることによって乗り越えてきたからだ。 そこで彼は思いついた。今までは頭ばかりを使ってきた。それに、不健康なこともやってきた。これからは長生きすること、つまり健康でいることを第一に考えよう。さて、健康になるためにはなにをどうすればいいだろう。まずは食生活。次に運動、そして睡眠だ。そのとき、彼の灰色の脳細胞が彼にこう告げた。「筋トレしなさい」
 彼はそのときのことを自著で次のように述懐している。

「当時私は、次に向かうべき方向を見失っていました。嫌味ではなく、私はすべてを手に入れていました。ほしいものはすべて手に入れてしまっていたのです。これは、見方によっては不幸なことです。なぜなら、生きる気力がそがれてしまうからです。私は普段3食食べる人間ですし、朝から料理もします。しかし、当時の私は、しばしば朝ご飯を抜きました。これは、幼時から思い直してみても、初めてのことでした。ストレスというのは食欲を奪うのですね。
 私は東京の大学を首席で卒業してから、海外の大学に留学しました。先代のアメリカ大統領は、私の後輩です。彼は私のことを尊敬してくれていましたが、当時の私を見たら、驚いたことでしょう。どんな人間でも、目標を失うと無気力で怠惰な人間になってしまうということの、生きる見本のような状態でした。
 そんなとき、私は天啓をうけました。それは至ってシンプルでした。つまり、「筋トレをしなさい」ということです。その日、私は久しぶりに早く起きて、外を散歩していました。老人がウォーキングをしていたので声をかけると、老人は気持ちよく挨拶をしてくれたのでこっちも少し気分が良くなりました。散歩している犬に吠えられたときはけり殺してやろうかと思いましたが、もちろんそんなことはしませんでした。日本製の車が臭い排気ガスを噴射しながら坂を駆け上がっていったとき、ちょうどそのときでした。
 私はすぐにスポーツジムに会員登録すると、その日のうちにウェアやシューズを買いそろえ、翌日から早速筋トレを始めました。なにかを決断したときは、これくらい早く動くのが大切です。情熱が冷めてしまう前に、動き出さないといけません」

 それから数年が経ち、彼の頭の中は、筋肉の知識で埋め尽くされていた。筋肉のことなら何でも知っていると自負していた。鏡の前で作り込まれた自分の体を見ているときが、至福だった。皮膚のしたから押し上げてくるプロテインの膨らみを手のひらでさすると、危うく性的興奮を覚えてしまいそうだった。可能であれば、精神を肉体の外に出して、自分の肉体で自分の精神を犯したいくらいだった。と、そのとき彼は貴族的精神を発揮し、犯したい、のではなく、性交渉したい、と思い直した。彼は分別のある男なのである。
 可能な方法としては、鏡の前にゴム製の張り型を置き、その張り型で自らの肛門を塞ぎながら、鏡を見つつ、自分で自分の体を愛撫する、というものがあり、彼はそれを実行してみた。始める前から興奮状態でじらされた状態だったため、その行為は彼をそれなりに満足させた。すると急にお腹がすいてきたので、彼はタワーマンションから出て、コンビニに向かった。コンビニに着き、中に入ろうとしたとき、ちょうどブレーキとアクセルを踏み間違えた車が突進してきて彼はひき殺された。鈍い音がして、車の中から老人が慌てて飛び出してきた。老人はムキムキの死体を見下ろして頭を抱えた。

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