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nero11



 太陽は目を離すとどこかへ行ってしまう。ネロとマリは太陽の監視を怠っていたため、昼食をとりに来たつもりだったのに、外はすでに夜になってしまっていた。
 店を出て街の上を綱渡りで進みながら、街中に散りばめられた暖かそうな窓の灯りを見た。雪の白さがむき出しになって、夜をところどころえぐっていた。
「飛べなかったらって考えたことある?」と、マリはさりげなく言った。街の灯りが見えなくなるほど遠ざかり、訓練所の灯りが迎えてくれるほど近づいてもいないスズランテープの上では、地面が真っ黒に塗りつぶされて、何一つ見分けることができなかった。地上が空と同じくらい遠く、深い。マリが店を出てから初めて喋ったのは、そんな場所だった。
ネロはマリの声に反応して振り返ったけれど、マリの顔を見分けることができなかった。ぼやけたシルエットが、かろうじてマリの形をたもっていた。
「飛べないなんてことはありえないよ。訓練さえ始まれば、誰でも飛べるようになるさ」
「でも、永遠に訓練が始まらなかったら?それに、ほんとうに、誰でも飛べるようになるなんて、どうしてわかるの?ざんねん、私だけは飛べませんでした、ってことになったら?誰にでもできることが、私にだけはできないかもしれない」
「まさかそんな。ほかのみんなにできて、君だけにできないことなんて何もないよ」
 マリはうつむいた(ように見えた)。ネロはマリの近くまで戻っていこうとしたが、ネロが一歩進むと、ゲは控えめに、しかし正確に一歩退くのだった。
「根拠が一個でもあればいいの。一個もないのよ、私が飛べる根拠なんて」
「だって…どうして自分が飛べないだなんて思うの?飛べない根拠だってないじゃない」
「飛べない、かもしれない、と思うのよ。いつもそのことばかり考えてるの」
「さっきの話、ヴィラーサとかいう生き物も空を飛べるって。羽がなくても空を飛べるんだって」
 ネロはマリの体に触れようと腕を伸ばしたが、マリはその腕を避けるように体をそらした。ネロはおずおずと自分の腕をおろした。
「ねえ。私、さっきのお店に忘れ物したみたいだわ」
「それなら、明日また取りに行けばいいよ。明日また太陽が空にとどまっているころに」
「いいえ、今取りに行くわ」
 マリはそう言うと体を回転させて、ネロに背を向けた。ネロは「先にもどってて」とマリに言われるままに、訓練所へ向かってもう一度歩き出した。歩きながら何度も後ろを振り返って確認した。けれど、すでにマリの名残りすらなかった。目を凝らしてみると、ゲが立っていた場所に、じっとして動かない黒い跡が残っているように見えたが、それは眼球の、焦げ付きのようなものでしかなかった。それはふとした拍子に、ぽろっと消えてしまって、二度と戻ってこなかった。ネロは駆け戻ってくるマリの足音を期待しながら歩き続け、ついに塔の頂上へ戻って来た。
 塔の展望台からは、食堂の煙突にくっついて風にそよぐ煙が見えた。夕食の時間らしい。けれどネロは塔の階段を降りて、そのまま自分の部屋に向かった。

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