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健気なTwitter小説解説No.4[鬼鬼桃太郎]


 嘆いている人、たとえば鳥の糞を落とされたばかりの憐れな人に「オッ、良かったじゃん、運がついたね」と言ってみたり、あるいはさんざん我慢してようやく出先のトイレで用を足しすっきりた顔つきの人に「あーあ、運を落としてきちゃったね」と言ってみたり、人間というのはじつに身勝手でたくましい生き物だと思います。うんこネガティブを、言葉遊びで反転させポジティブに変えたり、あるいは排便にともなう快楽のぬるいお湯に浸っている惚け顔に冷や水浴びせたり、やりたい放題です。
 でも実際、鳥の糞を落とされた側に立ってみて、その様な言葉による反転が、人生においてどうしても必要なのだということが、身に染みて分かったのでした。
「うんこ付けられてラッキー」というのは、屈辱を受け、情けない気持ちになってしまった心を立ち直らせるための逆説、切実な言葉遊びなのです。 現実的な学びもありました。(以下20行に及ぶ鳥ふん教訓潭が記されていましたが、書いてから投稿まで半月くらい空いてしまい、読み返して(3.19)温度差を感じたので抹消。要は、最近は鳥ふんが落ちる気配を感知できるようになった、みたいな話でした)

 さっそくTwitter小説の解説をします。第4回ということで、鬼鬼桃太郎ですね。尾崎紅葉です。紅露時代といえば、聞き覚えのある人もいるかもしれません。有名なのは「金色夜叉」あたりのようですが、個人的な読みづらさメーターで言えば、準備なしで突撃してなんとかギリ読めるかな、という感じです。初読ドストエフスキーぐらいです。時間がかかりそうだったので、とりあえずもう少し短いものから、ということで「鬼桃太郎」を開きました。
 あんまりまじめに解説しても仕方ないので、大雑把に書きながら考えていたことを書きますね。
 「鬼桃太郎」は、桃太郎が鬼ヶ島を襲撃した後日談です。桃からうまれた人間が、優れた存在であるなら、桃からうまれた鬼もまた、優れた存在になるはずだ、というわけで、鬼桃太郎なるものが登場します。「桃からうまれた」という条件によって、人間だろうが鬼だろうが優秀な存在になるというルールを引き出したところに面白みがあると思います。
 あっけない幕引きです。これは、是非実際に読んでいただきたいです。唐突すぎて、滑稽という言葉がじつにしっくりきます。(最近、この手の滑稽は単に「構成が荒い」とか「尻切れとんぼ」とか、あるいは単に「低俗」といわれがちな気がしますが、現実世界ではもっと低俗な話題でけらけら笑っている人も多いし、滑稽にはどこかすがすがしさがあると思うので、ぼくは断然、滑稽擁護派です)

 トリビュートでは、まずこの幕引きを「引き継」いで書いてみたいという動機がかなり大きな位置を占めていました。また、文体も非常に魅力的で、すこし真似させてもらいたいという気持ちもありました。
 それから、桃太郎が本当に桃からうまれたのだとすれば、きっと孤独のはずです。鬼ヶ島から帰ってきて、社会的な成功を成し遂げても、自分自身のルーツは桃です。育ての親はいても、本当の両親は桃です。先祖、桃。家系図の枝先には桃の実がみのっている。
 これは孤独極まりない。育ての親にしても、ご老人ですから、自分より先に亡くなってしまうでしょう。人生の寂寞を感じた桃太郎は、その心の穴を埋めるために、桃の研究にのめり込むわけです。桃に関係する論文を読みあさるにつれて、快活明朗だった桃太郎はやがて、長広舌の理屈屋になってしまっていましたのでした。


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