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nero9


ネロとマリは施設の敷地の外に出るため、いったん部屋に戻って上着を持ち出した。マリはネロをひきつれて、ぐいぐい歩いた。そうして一本の尖塔にたどり着いた。ネロが駅から確認した尖塔だ。
「さあ登るよ」
「登るの?でも、街に行くんだよね?」
「空が飛べたら、あっという間なのにね」
塔の内部はスカスカで、フレームしかなかった。そのため、たくさんの風が自由に行き交っていた。木組みに足をかけて登ってゆくと、景色が良くて、ちょっと腰を下ろせる木組みのある場所に行きついた。展望台と呼んでもいいかもしれない。
「サルはどこ行っちゃったんだろう」とネロは乱れた息を整えながら、マリに訊ねた。マリは小さな鳥のように、かすかに首を傾げるだけだった。
地面の温もりは、展望台まで届いていなかった。なんの妨げもなく走り抜けてゆく風は、ほとんど暖められることがなく、吸い込むと肺が凍えた。
「あーあ、早く飛んでみたい」マリは木枠から身を乗り出して、素っ気なさを装いながら、しかしどこか熱っぽくつぶやいた。
展望台からは中庭が見えた。そこでは先生が、係員たちに取り囲まれていた。「やっぱり偽物だったのよ」とマリは笑いながら言った。ネロは何も言わなかった。
先生はその後、係員たちに担ぎ上げられ、強制的に勝手口へと輸送されてしまったんだ。何人かの訓練生は、先生を失いたくないようで、係員に付きまとい、服を掴んで引っ張ったり、肩を少し強めに叩いて妨害を図っていた。けれどもそれは、無意味なやけっぱちの足止めでしかなかったよ。
ネロはそれ以上見ていられず顔をあげた。そのとき、隣の山の表面から、小豆くらいの大きさの影が遊離するのが見えた。ふわふわと上昇し、そしてゆらゆらと下降してゆく。
「ねえ見た?今の!今の何?」
ネロは興奮してマリに訊いた。しかしマリは何も見ておらず、ネロを不思議そうな目で見つめ返すだけだった。「何を見たの?」と訊き返されて、ネロが熱を入れて説明すればするほど、マリには理解ができないのだった。「きっと鳥かなにかじゃないの?」
 ネロの興奮した喋りによってまき散らされた唾が、一つ残らず地面に墜落したころを見計らって、マリは「そろそろ行こうか、風もそんなに強くないみたいだし」と言った。マリは展望台から出ると小さな足場に飛び移り、そのまま塔のてっぺんに向かった。この先はどんどん尖がってゆくだけなので、展望台のようにゆっくり休める場所がない。頭の中が例の浮遊物の事でいっぱいだったネロは、マリのあとをなにも言わずに追いかけた。
 上昇気流と、木々の頭上で渦を巻く冷たい風とがぶつかりあって、砕けた空気はガラスの破片のようにとがっていた。それは塔にしがみつく二人を痛めつけ、そのまま地面にたたき落とそうと目論んでいるのだった。マリは、ときには壁にとまって休む蝶のように風が弱まるまでその場にとどまり、また別のときにはこいのぼりのように体を風に任せて、木枠を掴んだまま右に左に体は流れた。ネロはずっと遅れて、なめくじのように少しずつ上ることしかできない。
 塔の頂上から、幾本ものロープが、隣の山の白い中腹めがけて張られていた。マリはその中からピンク色のスズランテープを一本選び出し、爪ではじいた。張り詰めたスズランテープはビィンと弦楽器のように音を立てて揺れ、遠くでは何かがキラキラと光った。テープの上に載っていた雪が振り落とされながら、その小さい体すべてを使って太陽光をはじき返したのだ。テープは、どこもたるんではいなかったが、端はところどころほつれて、細い髭のようなものを生じさせていた。
 マリは猫のように軽々とテープの上にとび乗り、その上を器用に走った。幅は5センチしかなかったので、ネロは躊躇した。その間に、マリは本物の猫の大きさになるくらい、ネロから遠ざかっていた。
「早くおいでよーー!」
 マリはとん、とん、とん、と小刻みに飛び跳ねながら、ネロにむかって頭の上で両手を振った。ぎこちないジャンプの仕方だったが、その飛び方は、スズランテープの上での飛び方としてはうってつけらしかった。両足を横に開かず、一直線上で前後させたまま跳ぶのだ。
ネロがおそるおそるテープの上に足をのせると、それは角材のように固く、少しも揺れなかった。
塔の下には真っ赤なレンガの地面があり、その赤色は施設を仕切るフェンスの手前まで敷き詰められていた。落下した訓練生の体液の色だと言われているが、本当のところは誰も知らない。
フェンスの外側は、雪の積もることのない、鬱蒼とした木々の濃緑の葉に囲まれている。さらにその外側は、おしろいのようにきめの細かい雪の白で塗りたくられている。そして最も外側には、山と山の境界としてのえぐれた渓谷、埃をまぶされたような薄黒い灰色の帯が、不気味にのび広がっていた。
 ネロは風に押されて、初めは右へ左へと傾いたりしてバランスをとっていたが、やがてコツをつかむと、空中を跳ね回る自由なフォームで、テープの上を駆け抜けた。ネロはすぐにマリに追いついた。ネロがマリの肩を後ろからたたくと、マリは振り返って、柔らかく微笑んだ。マリの表情は、朝日を浴びる雪のようにさわやかに溶けた。
「山を下りて、それからまた山を登って、ずっと雪かき分けて進むより、こっちのほうが簡単でしょ?」
 ネロは力強く頷いた。
「こんな感じかしらね、飛ぶのって」
「このまま本当に飛んでみたらどうだろう」
「そんなことしたら、地面につぶされて死んじゃうよ」マリはくすくす笑いながら言った。
 スズランテープの終着点は、雪に飲み込まれた街の、今にも崩れそうな泥の塔の頂上だった



neroの掲載が終わったら、恋愛小説を書こうと思います!お楽しみに!

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