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旅と地図

*これはナラベルWebサービスとの連携エントリーです

 旅は地図だ。地図なしの旅などありえない。ガイドブックに付いているような観光地が書き込まれた地図ではなく,実務的な道路地図がいい。移動は可能なかぎり遅く。時間的な問題は確かにある。しかし,遅ければ遅いほどに,旅は旅になる。可能な限り,人力でないものは避ける。自転車はよい選択だ。しかし,ベストは歩くこと。

 荷物は最低限をリュックで。一人用テントと寝袋も一緒に。食料には魚肉ソーセージを1ダース。飲料水を1リットル。スマートフォンと時計は置いていく。本も持たない。メモは地図に書き込む。だから濡れても滲まない油性ボールペンが必要だ。歩きやすい靴に,速乾性Tシャツ数枚。タバコとライター。すべてをリュックに詰め込んだら,準備完了。旅の始まりはいつでも,陽が登る前の明け方がいい。

 足元が熱い。アスファルトが溶けて,靴底にへばり付くような感覚。右手には山の深緑,左手には海の群青。道の上では風にも色がある。歩きながら頬に風を感じると,色が見えるのだ。人の気配はない。当然,バスも車もない。アスファルトに書かれた歩道線の上を歩いて行く。肌が焼かれる。サングラスはしていない。どんなバイアスもないこと。それは旅の贅沢の一つだ。一歩ずつ前へ進むと,陽が傾いていく。時折立ち止まり,自分の立ち位置を地図で確認し,日時を書き入れていく。気が向いたら,コメントをひとこと,ふたこと。腹が空いたらソーセージをかじり,水を飲む。そして歩く。本格的な夕日の時間に近づくと,世界の色は一変する。その美しさと気高さに,息を止めて立ち止まると,風がやみ,本当の静寂が訪れるのだ。それはいつまでも記憶にとどまる一瞬となる。

 テントの中で目が覚めるのは,ほぼ夜明けと同時だ。まだ陽は登り切っておらず,薄暗いオレンジの光が海を染めている程度。テントからぬけ出すと,海岸線ギリギリまで歩いて行き,少しだけ海に足先をつける。そして背伸びを一つ。日中の暑さはまだ消えていない。水道をひねって生温い水で顔と髪を洗い,歯磨きも済ます。あとは,テントを畳んで,荷物をまとめるだけ。逃げ遅れたフナムシを踏み潰してしまわぬよう,足元に注意を払いながら,出発の準備。朝食は魚肉ソーセージ。日の出から太陽が完全に空に浮かぶまでの僅かな時間は,すべからく平等に生命を与えてくれる。この瞬間に目にする夜露に濡れた雑草の葉は,少し神秘的で,口に入れてみたい誘惑に駆られるほど。帽子をかぶり,リュックを背負うと,’よし’と一声だし,新しい旅の一日を始める。何も考えず,空白のまま。地図に始まりの時間を書き込んだ。

 アスファルトの道は,夜露に濡れ,鈍く光っている。人の気配は当然ない。時々,エンジン音が山を超えて聞こえてくるが,それは完全に別世界のものだ。明け方のアスファルトは硬く,ひんやりとしている。電線の上を器用に駆け抜けるのは,栗鼠のような小動物。時々,不思議そうに振り返って,こちらを見ては,また駆け出していく。’ジャンピングジャックフラッシュ’のサビを適当な英語で繰り返し口ずさみながら,太陽の高さを感じつつ歩き続ける。足元には轢き潰された無数の死骸たち。虫にミミズ,カエルやヘビもいる。おそらく一昔前には,ここにアスファルトも車もなく,突然に命を奪われることもなかっただろう。だが,それがどうしたというのか。どんな場所でも時代でも,生命は儚い。だからこそ,旅では前に進む。

 日差しが真上から肌を焼き始める頃,コンクリートの防潮堤に腰掛けて,タバコに火をつけた。腰の曲がった老婆が,畑仕事にでるのだろうか,籠のようなものを背負って,山を登っていく。煙を吐き出しながら,その後ろ姿を追っていると,小屋から犬が飛び出してきて,老婆めがけて走りだした。携帯灰皿でタバコをもみ消し,地図を開いて時間を書き込む。ぼんやりと山肌を見上げていると,老婆が足を引きずるように歩きながら,こちらに向かってきた。犬は尾を振りながら,老婆にまとわりついている。私はリュックを背負い,立ち上がる。老婆が籠から取り出したのは,ほんのりと赤いリンゴ。食べていきなさい,と小声で言う。受け取ったリンゴをリュックのサイドポケットに入れて,帽子を取ってお礼をした。それから魚肉ソーセージを取り出し,半分に割って犬に差し出す。老婆は,嬉しそうに皺を寄せながら笑い,犬の頭をなでた。それじゃ,と言って歩き出すと,背中から犬の鳴き声が聞こえた。海は静かなまま,日差しも変わらない。一つ,リンゴが増えただけ。

 トンネルに光は無いが,暗闇ではない。両脇に作られた狭い歩行者用の路側帯を歩いて行く。出口は見えない。時折,生暖かい風を纏いながら,車がゆるゆると走り去っていく。換気のための大型ファンが常時回っていて,その音はこの世の終わりを告げるラッパのよう。足元は暗く,ペットボトルやダンボール,時にはテレビが放り出されていることもある。暗闇ではないが,暗闇よりも急き立てる。出口へと急ぐ気持ちをぐっと抑えこみ,同じペースを保って歩く。ペットボトルをまたぎ,小さな水たまりを避けて進んでいると,1台の観光バスがスピードを落として横を走り去っていった。バスのライトが夜光虫のように光の線を残して小さくなっていく。走り出したくなるのは,出口が近い証拠。観光バスがトンネルを抜けた時に,風がビュッと吹き抜けた。微かだが,陽の光が差し込んでいる。トンネルを抜けると,おそらく下り坂。リュックを背負い直し,呼吸を整えて,坂を登る。トンネルの縁によって遮られていた視界が,徐々に広がってく。最初に見えたのは黄色,そして青。トンネルの出口まであと僅か。トンネルは暗闇ではない。それは,道標。視界が雲の白で圧倒されるのと同時に,再び,日差しが肌を焼く。足を止め,ペットボトルから水を飲み,視線を上げた。そこにあったのは,果て無く広がるひまわり畑と群青の海。観光バスの小さな後ろ姿が,遠くの崖の上に見えた。歩いてたどり着いたここは,記憶の中に残るどこか,まるでデジャブのよう。大きく息を吐き,自分がひまわりでないことが不思議だった。

 日陰に腰掛け地図を取り出すと,ちいさく’ひまわり’と書き込んだ。タバコに火をつける。車も人も,まったく気配はない。リンゴを取り出し,一口齧る。もうひと口。噛みしめると,果汁が口の中で広がった。甘くはない,酸味が舌を刺激する。リンゴの芯のかたいところをぺっと吐き出し,タバコをもう一服。少し風が強くなったのか,ひまわりは不規則に揺れ,タバコの煙は直ぐに霧散し,白波が目立ってきた。タバコを携帯灰皿で消し,リュックにしまう。ひまわりは本当に,太陽の動きに合わせて花の向きを変えているのだろうか? 地図に時間を書き込んでから,リュックを背負った。右手にはリンゴの芯。背の高いひまわりの根本に小さな穴を掘ってリンゴの芯を埋めたが,土はカサカサに乾いていた。小型の観光バスが一台,トンネルを抜けてひまわり畑の脇を走っていき,崖のかなり手前あたりで突然止まった。振り返ると,トンネルが暗闇の口を開けて,こちらを見ている。大型ファンが鳴らす不気味な音は聞こえない。代わりに,波が波除ブロックを打ち付ける音が響いていた。気がつけば,観光バスは走り去り,ひまわりと入道雲と白波だけが取り残されている。ひまわり畑がポスターに描かれた映画のタイトルが思い出せない。悲劇的な話だったことは覚えている。いまここで,どれだけ目を凝らしても悲劇は見つけられない。本物のひまわりに畑には,悲劇は似合わない。

 通り雨の気配。あと少しで旅は終わる。土埃の匂いと雲の色,それが通り雨を知らせてくれる。雨宿りもいいが,濡れながら歩き続けるのも悪くない。風が冷たくなり,雲が駆け足になると,その時は直ぐに訪れる。雨の中を歩き続けようとリュックカバーを取り出した時に,古びたバス停が目に入った。横にはブロックでできた朽ちかけた小屋。肩に雨粒を感じたので,急ぎ足でバス停小屋に飛び込む。誰もいない。壊れかけた木製の長椅子が一脚。バスの時刻表に記された時間は,4つ。鉄板に描かれた広告が,錆びれて落ちかかっていた。リュックを下ろすと,タバコに火を付け,入り口に立つ。あっという間にどしゃぶりの雨。アンコールワットで出会ったスコールと同じ。タバコの煙が雨粒に打ち消されていく。地図を出し,時刻を書き入れる。立ち止まる度に地図に書き入れた文字。この旅で,あと何回,書き込むだろうか。海岸線の先にある森を抜ければ,旅は終わり,地図が完成する。完璧な地図が。波がコンクリートブロックに打ち付ける。雨はさらに激しさを増し,雲の駆け足も早くなる。煙を吐き出してから,携帯灰皿でタバコをもみ消した。最後の一本となった魚肉ソーセージを齧るが,ペットボトルに水はない。もっと旅が続けばいいのだが。雲の隙間から,わずかながらオレンジ色の光が差し込む。だが,雨は降りしきったまま。空の青がさらに強くなれば,雨は上がる。地図をリュックにしまうと,その時を待っていた。かなり大きめのヤモリが,目の前を横切る。何となくいたたまれなくなって,リックを背負うと,まだ雨粒が落ちている外へと飛び出した。アスファルトは雨に洗われ,まるで生まれ変わったかのよう。でもそれは錯覚だ。ひと粒の雨,ひと吹きの風,それで変わるものなど,自然の中にはないことを,旅はいつでも教えてくれているのだから。ただ歩く。日差しが雲を割る。白波がコンクリブロックを打つ。旅の終わりは,どこにあるのか。この旅がどこまでも続けばいいのだけれど。


この旅の続きは,あなたが手にする地図と一緒に…

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