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好奇心の葬式

最近、1日に2回くらい、ふと思うのだ。
「修士課程で辞めてしまってもいいのではないだろうか」と。
嘘です、4, 5回は考えています。

『博士に進むには相当な覚悟と、異常な熱意を要する』とよく言うが、今の私には熱意というものが無い。心の中を確かめてみても、炎は全く消えている。学部のころはあんなに苦しんでいながら、それでも蝋燭ほどの光はあったのに。1年前まで、望んでいた分野に足を踏み入れることができて、あんなにわくわくしていたのに?

私の好奇心は以前は3ヶ月に1回くらいはうんとかすんとか言ってくれていたが、次第にペースが落ち、音信不通になってしまった。小さい頃は無尽蔵に湧いていたのだが。
もしかしたら富士山のように、休眠して噴火の頻度が下がっただけかもしれない。だが、私の人生は好奇心山の噴火ペースより短いかもしれない。

やるなら博士課程まで進む、やらないならさっさと辞める、と私は学部のときから決めていた。博士まで行くのは大前提だ。モチベーションなら後付けすればいいのだ。幸い、私は高校の時から数学と物理が得意ではなかったし、わけが分からなくて苦しいから好きでもなかった。つまり、それら数年間で、好き以外の感情をガソリンに変えて『好きじゃないけどやらなければならないやりたいこと』に執着する術を学んでいた。なぜかってそりゃ、最終的には続けたもの勝ちなのだから。

かつてやりたかったことに対する気持ちが、いつか再燃しないなんて保証はできない。だからこそ、小さい頃の自分が興味を持ち、開けてしまった扉、始めてしまった物語に区切りをつけて、終わらせたいのだ。これは一種のお葬式かもしれない。棺桶にがっちりと釘を打って、最後まで見届けてやるのだ。ここから逃げたらきっと、あの頃のわくわくが数年後に化けてでるだろう。残念ながら、それはなんとなく自信がある。

あの頃に帰れるなら、かつての自分にこう言ってあげたい。「素粒子物理学はやめておけ!」
そしておそらく、頑固な私は一切聞く耳を持たない。




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