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取り残されて

 自分をコンテンツとして楽しんでくれる人の前では「面白人間」でいたい。自分そのものが愛されることに限界を感じてくると、愛情の代替物として興味や関心が得たくなる。そこで、つまらない道化を演じて私のもとにその人の興味と感心を繋ぎとめておこうとする。しかし、それも疲れてきてしまった。
 振り返ると、私の人生が決定的に狂い始めたのは浪人時代、携帯もなく他人との関りを断たざるを得なくなった頃からだった。その頃から今に至るまでずっと何かがズレている。
 浪人時代は予備校にも行かず、バイトも禁止されていたので人間関係は基本親だけだった。「お前は努力すればひとかどの人間になれる」と母はよく言った。その根拠のない期待に応えることができそうにない私は、家を抜け出しては一駅先のコメダ珈琲店でひたすら小説を読み耽った。浪人時代に読んだ小説は100冊を優に超える。ドストエフスキーやミラン・クンデラの長編小説を好んで読んでいた。現実世界から抜け出して、コンテンツに浸りたかった。その頃の現実ときたらまるで味がしなかったのだから。小説の世界のほうがずっとリアルに思えた。
 浪人時代の夏、昔の友人から使わなくなったiPodを貰った。これで連絡できるなと彼は言った。家に帰って深夜、布団の中でそれを家のWi-Fiに繋いだ。サファリからパスワードを入力してTwitterにログインすると膨大な情報の海。帰ってきたという感じがした。帰ってきしまったという感じがした。それからは毎日Twitterでネットの住人達と会話をした。勉強はますます手につかなかった。当時の私の学力と志望大学の難易度を考えれば、一日最低でも八時間の勉強は必要で、事実私は焦ってもいた。焦りすぎて何もできないという状態だったのかもしれない。そうこうしているうち、Twitterのアカウントはどんどん成長していった。電子メールやDMのやり取りをしているうちネッ友とも言うべき人たちもできた。ネットの中で生きているみたいだった。
「そのうちオフ会やりたいですね」
「そうですね。自分は東京なんで東京ならどこでも行けますよ」
「あ、でも受験生なんでしたっけ?」
「え、あ、はい」
自分には居場所がない。これは、居場所がないことを忘れるための装置。携帯よりもずっと小さなiPodの画面を見つめながら、そこに自分が入っていけないことの孤独がますます圧し掛かってくるのを感じた。自分には居場所がない。大学にさえ入れれば状況は変わるのだろうか? 大学にはサークルやゼミがあってそこで友達ができるんだろうか?
 当時から、大学に合格すれば全部が解決するという受験界隈の神話を私はどうにも信じることができないでいた。家に届く予備校の広告には受験生の気をひくために漫画がついていた。ストーリーはどれも同じで漫画の主人公は予備校に入ることで成績が上がり、交友関係や部活動も充実し、非の打ち所がない成功を手に入れるのだ。その夢のような単純なサクセス・ストーリーはむしろ私を不安にさせた。その漫画を読んでいると、受験というものそのものが一つの特殊詐欺みたいに思われてくるのだ。うまい口車に載せられて何かを奪い取られている気がしてくる。
 勉強に集中できない。問題集を長時間見ていられない。しかし、時間を持て余すと不安が高じて衝動的に消えてしまいたくなる。そういう時は高いビルを見つめたり、橋の上から下を見つめて深呼吸すると一時的に気分が楽になった。私はますます読書に没頭した。本を読んでいる間は何かをしていると思えたし、それは頭を使うことであっただけに勉強の代用としてはいいように思えた。
 冬になる頃には国立大学合格は絶望的な状態になりつつあった。浪人していただけに、得意科目の物理と数学の偏差値は十分に志望大学の合格ラインに到達していたが、国立受験に必要な社会科目、英語、国語は目も当てられないような状態だった。国立はどうせ駄目だろうから、せめて私立のどこかには引っかからないとと思った。それを思ったのは私立の試験の二週間前あたりだったので、そこからは赤本だけをやりこんだ。
 結果、国立はやはり不合格だった。しかし、東京の私立大学に二つ合格したので、偏差値の高いほうに進学した。一瞬、希望が見えたような気がした。やっぱりあの予備校の広告漫画は嘘じゃなかったんだ。自分の二週間の努力が報われたんだと愚かなことをちらと思った。テレビでは連日コロナのニュースをやっていたけれど、自分が大学に行く頃には関係ないことだと思っていた。
 味のしない現実からは大学合格くらいでは全然逃げられないということに気づいたのは実際に大学が始まってからだった。コロナは世界的なパンデミックへと発展していた。全ての授業がオンラインで、図書館は閉鎖され、学生実験は謎のデータセットのみが送られてきてそこから機械的にグラフを作成するものだった。サークルは絶対禁止で、私の数少ない趣味の演劇は業界全体が完全に沈黙へと落ち込んでいった。
 コンテンツは世間でますます持て囃されるようになっていた。iPodより少し大きなdellのPCの画面が私にとっての大学で、そんなものを愛する気持ちは全くわかなかったし、そんなものに帰属したいという気持ちも全くわかなかった。このころから、コンテンツに対するアレルギー反応のようなものが発症していた。本来現実に生きるはずの人間があまりにコンテンツに浸りすぎるとどこかで限界が来るらしい。私は読書どころか何もする気がなくなってしまった。漫画もアニメも駄目だった。何もできない。コンテンツに触れることができない。よくない傾向だった。授業に出席するためにPCを立ち上げるのさえできなくなってきていた。コロナ時代、大学は学部生にとって完全に通信教育の映像サブスクリプションのコンテンツになっていたのだ。Twitterでは「オンライン、楽でいいね」という投稿が乱れているなか、うまく適合できない、その自分の間の悪さが嫌で嫌でたまらなかった。大学に、行けない。
 四角な画面を見つめていると、自分は完全に見放されていると感じた。PCの画面は監獄の窓みたいに思えた。どうせ外へ抜け出せないなら、窓がないほうが気持ちが楽だ。
 贅沢な悩みと人は言うだろうなと書いていて思う。そんなことは当時から分かっていた。贅沢な悩みだし、共感されるとも思えない。でも、あの頃から一人ずっとズレたままの自分を文章にしたいという気持ちは強くある。コロナがいつの間にか終わったというムードになった今、周囲の人々はコンテンツといい距離を保って幸福で重さと意味のある現実に帰って行った。そんな中私だけがコロナ時代に取り残されているような感じがする。
 人間との関わり方が分からない。忘れた。どこを見ても他人、他人、他人。煌びやかで面白くて愉快で優しいけれど結局は他人。考えてみると、画面の向こうにいる人は全員他人様で、他人様しか私の周りにはいない。他人様とはすなわち、私の演じる道化にしばらくの間興味と関心を持ってくれた人たち。嬉しいし、ありがたいけど、そこには愛はない。あなたが私を愛していないなら、私もあなたを愛していない。
 幸福になりたい。人間を愛したり、愛されたりしたい。二次元じゃない、現実の世界で人間に触れたい。空虚以外の感情を経験したい。
 ああ、誰か救ってくれ。置いていかないでくれ。助けてくれ。


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