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01.幼少期の家庭の様子

3~5歳くらいの記憶。
外では引っ込み思案だったけど、家庭では女王様のようにふるまっていました。
私は可愛がられて当たり前。可愛いんだから。

これは顔が可愛いとかじゃなくて、幼児の万能感のようなものだったのだろうと思います。

私がいちばん。私は何をしても許される。という感覚がありました。
その感覚は父親がいるとき限定。

そのことで親戚からは「○○ちゃんはわがまま」「お父さんは○○ちゃんを甘やかしすぎ」と言われていました。私の前でも大人たちはそのセリフを言っていたので、私は責められている感覚になっていたのを覚えています。

また、この女王様感は母親だけといる時には無かった気持ちで、母親にはいつも委縮していました。

お母さんはいつも怒っていて、うるさくて嫌な人
ここ7~8年くらい前までそういう印象が強く残っていました。
その母親のせいで我が家は狂っていったと思っていました。

実際、母親の歪みも大きかったと思うし、それによって親の顔色をうかがうというベースは私の中に作られていました。
母親と兄のやり取りを見て、何をすれば怒られずにいられるのかを日常の中で習得していました。

母と兄のケンカを見聞きして抱えた嫌な気持ちは、仕事から帰ってきた父親の膝の上に乗って甘えることで、私は心のバランスを取ってきたんじゃないかと思います。

父親がいる時の母親は、静かで安定していました。いない時とは別人のように気性が違っていました。
しかしそのことを疑問に思いながらも話すことは許されないという圧が家庭の中にありました。

私も、兄も、母も父も みんな歪みを抱えた一家で、今でいう「機能不全家族」であり、共依存が絡んだ「癒着一家」であり、その中で私は過ごしてきました。

母親の 何でも自分でやらなければ気が済まない性質で、私たち兄妹は身動きの取れないことが多くありました。自分の指示に従う様に、従わなければ怒鳴るというやり口が日常の中にありました。

兄は「反発」する方向へ行き、それを見ていた私は「従う」方向へ行き、それぞれ形は違えど自分を守る方法を家庭で学んでいきました。

また家庭の中の不穏な空気を察すると、私はおどけて笑いをとってみたり、急に話をそらして別のことをしだしたりと流れが悪い方向へ行かないように無意識でピエロ役をかってでていました。

それがかならずしも良い結果にはならなかったと思うのですが、成功したこともあったのでしょう。この癖は成功体験としてずっと自分の中に染みついてしまい、ずっと無意識で行っていました。

人の話を最後まで聞けず、途中で遮り話題を変えるということを空気を吸うかのように当然のこととしてやっていました。

これらのことは、また後ほど書いていきたいと思います。

父親が稼ぎの良い仕事をしていたので、生活は豊かだった記憶があります。
当時、車の無い家も多かった時代でしたが我が家では国産の高級セダンカーが数年に1回買い換えられていました。

母親は専業主婦でしたが、デパ地下が好きでよく私も一緒に行っていました。
今は無き昭和の銘菓の老舗の神田精養軒のマドレーヌを必ず買って帰っていました。このフィルムを外すとき、キュルキュルする音が嫌いだったのを覚えています。でもそのことを一度も母親に話したことがなく、今ここで発言するのが初めてです。

細かなことは別として、とりあえず父親が働いてくれて、母親が家庭を守ってくれて、なんとなく家庭は回っていました。


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