見出し画像

この十年、なにがあったのかを考えること。

36年の人生のなかで、おそらくはじめての寝正月めいた年末年始をすごした。お茶を飲みつつ、バッハばかりをBGMとしながら、ぼんやりとなにをするでもない日々。たまにはそれもいいかとおもえたのは、たんに言い訳なのか、それとも、それをよしとするような年齢になったということなのか。

とはいえ、そうして稼働しなくなったときにも漠とあたまにある、無意識にもちかい潜在的な意識。それを自覚する時間であったようにもおもえる。それはこのしばらくの自身の仕事——2009年に働きはじめたので、ちょうど十年がすぎたというのもある——それがなんであったのか、濾過するように整理をするきっかけにもなった。僕自身はむかしからいいかげんな性格でもあり、なにか目標をたてたり、強い意志をもってことに取り組むというのが苦手で、どこかでだらだらと、導かれるがまま目のまえの出来事に対峙してきたというのが、正直なところこれまでの実感。

その十年という時間としてひとくくりにすれば、客観的にじぶんはなにをしてきたのか自覚できるかもしれない。「釈底一残水 汲流千億人」というのは、なにも他者に対してばかりのはなしではない。自分自身が最初に落とした、わずかななにかも、それがひろがり、当初では想像もしない展開になっていることもあるだろう。ひとつのディケイドを俯瞰してみること、いまはそうしたタイミングであるのかもしれないと、ふとおもいつき、メモをまとめる。

1|タイポグラフィと場のデザイン——そのイントロダクションとしてのひかりのデザイン
2|デザインの教育をデザインしてゆくこと
3|一般教養としてのデザイン教育
4|ヴィジュアル・コミュニケーションのデザイン
5|まとめ: 東洋的な見方 / 土着のモダニズム


1|タイポグラフィと場のデザイン——そのイントロダクションとしてのひかりのデザイン

2009年。大学卒業から一年の就職浪人を経て、新宿にあるデザインの専門学校に勤めることになった。以来、勤続十年。それがいいのかわるいのか。変に生真面目な自分の気質があらわれているかもしれない。新人研修を経て配属されたのはヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの専攻。自分自身、学生時代は室内建築と空間デザインの学科に身をおいていいたから、やや意外な心持ちもあったが、デザイン科高等学校時代はグラフィック・デザインのコースに在籍していたこともあり、与えられる仕事への違和感はそんなにはないもの。いっぽう、そのスキルだけでは当然、求められていることには応えられないことも痛感していた。あらためてヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの基礎となるものを習得しなければというおもいの自覚。まず手はじめに、以前から自分自身の不足と認識していた、タイポグラフィの勉強をすることにした。夜間は朗文堂 新宿私塾を受講。僕の社会人一年目は新米講師であり、夜間スクールに在籍する学生の身となった。

運が良かったのは、勤め先の学校では新宿私塾の講師であるかたがたが数名、固定授業を持たれていたこと。新人の立場を利用し、アシスタントという体であつかましくも毎回の授業に潜入。しっかりと聴講させていただいた。なかでも特におおきかったのは河野三男さんとの出会いだろう。大学時代、視覚伝達デザイン科や基礎デザイン科の制作物で認識していたタイポグラフィは、いわばモダン・タイポグラフィという、特定の時代の、特定の様式にすぎず、その基盤となるタイポグラフィの総体——脈々とつづく歴史、それに付随するさまざまな様式、言語とその表記法という性格、ヴィジュアル・コミュニケーションにおけるインフラストラクチャとしての役割——近代においてデザイナーたちがになった造形的・構成的な操作以前にある、言語表記法としての活字組版(タイポグラフィ)をいちから知ることになり、はなしを聞くたび、その領域の深度に背筋がのびるこころもちだった。新宿私塾の受講生は平均年齢も高く、専門のキャリアもある方々が中心であり、デザイン領域とはいえ僕のような門外漢の初心者が籍を置くことは、やや気後れするものだったけれど、こうして贅沢な予習復習ができたのは恵まれたことだった。

その当時、新宿私塾では修了研究・制作課題が課せれた。ここでは欧文組版における組版テクスチャ/カラーに着目し、和文組版と比較。言語特性のちがいと、造形操作による可読性の変化についての考察をおこなった。いわゆるバーゼル・スタイル・タイポグラフィがユニヴァース活字をもちいて得た、均質なテクスチャによる空間性。そうしたスタイルへの憧れはあったが、それはラテンアルファベットのもつ特性のうえで成立するものであり、漢字、和字(平仮名・片仮名)を中心とした自分たちの言語には、かならずしも最適化されたものではないことを理解した。そのとき頭にあったのは、大学時代にまなんだ光環境デザインのこと。レンブラント的ともいえる劇的な光と闇のコントラストのある西洋的なひかりにたいして、東洋の、日本のあかりはぼんやりとしたもの。それは2007年の3月にはじめてたずねた京都、その12月にたずねたパリの比較でよりいっそう、リアリティある身体感覚として印象に残っていた。学生時代、面出薫さんに影響され、以来愛読書となった谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の一節を引用しつつ、拙いまとめとなったものの、そこで得た感覚はいまなお自身の軸となっている。

2010年。職場では二年目をむかえ、産学連携業務を担当することになる。当時、さまざまな箇所で産学連携という形式はすこし流行りのようになっていた。勤め先にも度々、外部の企業自治体から打診があり、それを意欲的な生徒たちを対象に課題活動として実施するという業務だ。いまとなっては思い出したくもないくらい、体力と気力にまかせさまざまな案件を闇雲にこなしていたが、とくに印象に残っているのは島根県経営者協会、そして三池炭鉱掘り出し隊との連携プロジェクトだ。島根県経営者協会は当初、代理店経由で依頼を受けた。いわゆる地域名産品のパッケージ・デザインなのだが、どうも話が噛み合わない。そこでそもそもの依頼主である、島根県経営者協会にはなしを聞きにいくことにした。「わたしたちは物をつくれるけれど、その売り方がわからないのだ」「向こう何十年続く産業のサイクルを生まなければいけない。これは死活問題なのだ」——そこであるかたがおっしゃった、とても印象に残っていることば。代理店が求めていたのは、いわばKawaiiとか、Cool Japanという当時の名産品で流行していた類のもの。ああ、やっぱりそういう短略的なものではないよな……産業サイクルをつくるほどのことは、さすがにできなかったが、長期的な視野でのデザインを提案することになった。高校では広告制作、大学の前半は商業インテリアをまなんでいたせいか、漠然とデザインは商業シーンにおいて、モード的付加価値をあたえるものという認識があったが、この経験から自身のなかで、その本来的範囲を再定義しなければならないことを実感した。

年が明け、東日本大震災からわずか数日後のこと。島根でのプロジェクトをご覧になった國盛麻衣佳さんから、依頼を受けた。國盛さんは当時、九州大学の芸術工学附に在籍され、産業遺産と美術の関係を中心とした研究活動をおこなわれていた。その内容は明確なタスクがあったわけではないが、福岡県大牟田市におけるアートプロジェクトに協力を願うというものだった。國盛さんと僕はおなじ福岡県大牟田市の出身。美術大学進学予備校で出会い、上京のタイミングもおなじであったことから、こまごまとしたやり取りは続いていたものの、こうして改めたはなしははじめてのこと。じつは島根のプロジェクトを通じながら、ぼんやりと脳裏には出身地である大牟田市のことがあった。かつては石炭産業で栄えたまち。いっぽうエネルギー転換と、1997年の三池炭鉱閉山を経ての斜陽化。それがゆえ、どこか重たい感情を抱いてしまう自身の出身地と、島根でみた必死さが重なるのだった。計画停電や鉄道間引き運行と有事のさなか、島根プロジェクト関連の生徒の反応をみて「ぜひ、やらせてください」と返事をした。

はじめは國盛さんの所属する九州大学 藤原惠洋研究室のフィールドワークに同行することとなった。自分自身は学生時代から現地調査・体験型調査をおこなう習慣があったが、このときの経験によって、それが体系化され自分自身の教育における再現性を持つことにもなった。その後は生徒グループと度々現地をたずね、國盛さんとブレインストーミングを繰り返した。こうして身を置きながらの活動調査と、文献にはじまる資料調査、それから現地の方々とのヒアリングやディスカッション。縦横無象に、そして経験的に対象とむきあうことで、世間でいわれるハウトゥー的なデザイン必勝法のようなものはもちろん、自身が受けてきたモダニズムのデザインの価値観も、そればかりでは通用しないことが痛いほどわかった。ちょうど当時、地方におけるデザインというものの流行の兆しがあったが、それもまたある時点から幼い様式化をし、都市にたいするローカルという記号をもつものがどこかれかまわず散見された。それではなにも課題を解決していないではないか、そもそも都市対ローカルという図式が近代の悪しき産物かもしれない。もとめられるのはその地における最適化されたデザインではないか?——2011年から2013年にかけた大牟田におけるプロジェクトのなか、つねに反芻していたのはそういうことだった。

ちょうどこの頃、マックス・ビルによる「デザインとは——それが建築であれ、ヴィジュアル・デザインであれ、プロダクト・デザインであれ——すべて環境形成である」という言葉が気になっていた。デザインはカテゴライズされた単体で成立するものではなく、それらが総合され、そして相互関係のなかでなされるもの。その領域とイメージはおおきく納得するものであり、島根や大牟田のプロジェクトではその範囲を常に意識するものだった。そのいっぽう、人間個人と外界が同心円状に拡張してゆく感覚は、すこし違和感を覚えるものでもあった。ビルに限らずだが、近代建築あるいは空間デザインの竣工写真の大半は人物不在のものがおおい。それは建築という彫刻、あるいは空間デザインという演出的なる、ひとつのオブジェクトということなのかもしれない。ひとがいてこそ成立する空間のデザインはできないか?建築空間などがひとを機能的に分類するのではない、ひとが主体となり出来上がるところ——結果として、大牟田のプロジェクトでは炭鉱閉山から50年後の写真を描く『大牟田2047』と題した催しとして、産業遺産施設において地域のかたにむけたワークショップや展示プレゼンテーション、ディスカッションなどをおこなった。それはひとつの空間デザインでもあったが、場のデザインといったほうが適切なもの。ひとが集う場をつくることが、このプロジェクトの課題のひとつでもあった。そしてそれは学生時代、面出薫さんの指導のもと、都内の各大学・専門学校の学生たちとともに、原宿 表参道において地域のひとびととともにおこなった、キャンドルナイトとおなじことだった。くわえて、こうした活動をおこなうなか、弟の指導教官でもあった風土形成事務所 廣瀬俊介さんと出会ったこともおおきなものだった。徹底した調査、その地の風土と在来植物、伝統工法をふまえてのデザイン。その姿勢にどこか、これからのデザインのありかたをみるおもいがした。

画像1

画像2

図版上|大牟田2047(2012年11月/2013年11月)
図版下|大牟田のいろ(三池炭鉱掘り出し隊と協働したクレヨン制作)

社会人の前半はこうしてタイポグラフィと、特定地域における場のデザインについて考え、実践する時間だったとおもう。そしてそのイントロダクションは意外にも大学時代、面出薫さんの研究室で、ひかりを軸としながらさまざまな環境のデザインをスタディしていたことにはじまっている。いっけんすれば、専攻内容とことなる仕事をはじめることになったが、通奏低音はずっとそこにある。


2|デザインの教育をデザインしてゆくこと

そうした活動をおこないつつ、2011年からは勤め先でも、いくつかの固定授業を担当することとなる。そのうちひとつは最初の二年間はテストケース扱い、それをふまえ2013年から通年授業となったものだ。最初に与えられたのは一年次前期の枠。いわゆる基礎指導をおこなう段階である。同時期に進行しているのはアドビのオペレーションやデッサン、色彩構成という類のスキル習得という性格のもの。かねてより、こうした造形的なトレーニングと同時に、ものの見方や思考を通じて、デザインするひととしての体質を作ることはできないかと考えていた。

スマートフォンやPCで例えるならば、このようなスキルはアプリケーションといえる。基本となるものはもちろん、時代や分野にあわせインストールし、必要に応じてアップデートしてゆかなければならない。しかし、それを適切に、かつ有効に動作させるには良質なOSが必要となる。反対に言えば、どんなにアプリケーションをインストールし、アップデートしても、そもそもが起動しなければしょうがない。デザインの教育機関をみれば、入学時点で領域が細分化していることがほとんどだ。つまりその後の「ギョーカイ」に準じて、グラフィック・デザインや、プロダクト・デザイン、ウェブ・デザイン……というように細かに専門化されている。さらには指導者と生徒の関係は、どこか旧来的な徒弟制度としての色が強く、おなじ領域でさえも共有されている軸が少ない。

たとえば音楽の教育が体系化され、基盤となる教養が共有されているのに比べれば、デザインの教育は現在、発展途上であるといえるだろう。デザインの「そもそも」のこと。デザインの定義と範囲の認識と、生活者としてのデザインの捉え方と、作り手としての見方と考え方、意見や思考の共有と言語化——そうした演習授業を設計することとなった。そしてそのプロセスのなかで、デザインのキーワードをいくつか言語化できたことはおおきかった。デザインの教育は、実はまだデザインされておらず、いま自分がおこなうべきはデザイン教育をデザインすること——そのような自覚が芽生えはじめた。それはデザインは水道や交通とおなじように、僕たちの日々の暮らしを支える基盤であるインフラストラクチャであることだったり、それは専門家のみならず知られてしかるべき一般教養であるということ。

実は島根や大牟田のプロジェクトで、おおくの方々と触れるなか、世間においてデザインというものが、これほどまでに理解されていないものかという実感と、自身の仕事における反省があった。たとえば病気の診断をおこなうこと、その施術をおこなうのは専門家たる医師の仕事だが、だれしもが健康に暮らす知恵はあっていいだろう。そしてデザインの教育が専門家育成を目的としたものばかりであり、暮らしの知恵、基礎教養としてまなぶ機会がなく、デザインの教育に携わるひとたちのなかでもその意識が無いことに気づいた。それでは日本におけるデザインの成熟はありえないだろう。デザインの作り手を目指す若い世代にむけ、デザインのそもそものはなしをまとめるなか、それが一般教養にもなりうる内容であることがわかってきて、それをどこかで試みてみたいという欲もでてきた。とはいえ、まずは一年次の受講者にむけて、きちんと展開すること。

ここでおこなうことは、最初に受講生各自が考える「いいデザイン」「悪いデザイン」をそれぞれ50点ずつ集めること。入学式の翌日の出題であり、その一週間後に締め切りなので、なかなか酷な課題だとおもう。初回授業ではその成果をもとに受講生各自がプレゼンテーション、そしてディスカッションをする。各々のデザインにひそむ理由に気づいてもらい、そして言語化し、それを集団として考える機会。デザインが単なるスタイリングではなく、環境や目的により価値が変化することに気づいてもらい、その後、受講生の満場一致で選出された悪いデザインのリ・デザインを検討してもらう。課題解決だけではなく、課題の発見と、その課題を超えてゆくことを最初に経験してもらう。その後はフィールドワークであるとか、リサーチに基づく作文とその冊子化、様式研究や、フィールドワークや連携による場に最適化されたデザインのスタディなど、各方面からのアプローチでプログラムは進行する。デザインの基礎教育といっても、さまざまな方法があるだろう。いっぽう、そもそもの基盤、OSを育成するうえで、このプログラムはまあまあ有効かな?というのが、数年間にわたり実施してきた立場としての感想だ。

画像3

「いいデザイン・悪いデザイン」講座の例
各自が50点づつ集めた「いい」「悪い」デザインとその理由をプレゼンテーションし、クラスでディスカッションする。

こうした内容の授業をおこなうことで、予想通り、他授業の連携が取れ、生きた文脈を持つ4年間の在籍時間となった。現在の仕事は自分自身自身の授業ばかりでなく、在籍期間全体の授業プログラム設計となっている。嬉しいことにこの数年間、在校生たちは学外の催しにも積極的に参加し、それなりの成果を出すようになってきている。自分勤め出したころには考えにくかった状況だ。十年という時間が長いのか短いのか、それはわからないけれど、在校生が確実に結果をだしているのは、とてもありがたいこと。


3|一般教養としてのデザイン教育

専門家育成の場でそうして、そもそもの基盤となる講座を担当するうち「ひょっとしてこれは、一般教養としても展開できるのではないか?」と考えるようになった。願いというのは叶うものなのかもしれない。2014年にオンライン学習サーヴィス スクーで講座を担当することとなり、さらには、これをきっかけとして学外での講座を担当することにもなった。社会人向けセミナーもあれば、美術館などでのワークショップもある。いずれも内容としては様々。専門家向けのものもあれば、専門家でないひとにむけたものもあり、自身が学校でおこなっている内容をふまえながらも、それぞれの場面で最適化してゆくプロセスは、自分自身とても学ぶものがおおかった。オンラインであれ、会場であれ、こうした場でおはなしをするのは、いつも気恥ずかしいのだが、いまこうした講座はきっと必要なのだろうという実感が際立つ。

2018年からは大林寛さんと協働しての講座をいくつか経験できたこともとてもよかった。もともとはおなじ学校の講師という関係にすぎなかったし、彼の専門であるインフォメーション・アーキテクチャ、エクスペリエンス・デザインという領域には、当時の自分としては距離を感じてもいていたのだが、ひょんなことで盛りあがり、以来、不定期ながらも機会をみながら講座が続けさせていただいている。大林さんの教養や実践経験と比較するのはいつも恐れ多いが、それぞれのアプローチや表現する言語が異なれども、たどりつく水脈はおなじという認識でいるし、そうしたスタンスの二人がそれぞれの箇所から、ひとつのテーマを掘りさげていくプロセスは、僕自身がいつも心地よい刺激を受けている。そういえば、その最初のきっかけとなったスクー『デザインのよみかた』の講座依頼が来た際、「菊地成孔と大谷能生の東大ジャズ講義、あのデザイン版をやりませんか?」とお誘いしたのがきっかけだった。こうした共有基盤があることがありがたい。

それから2016年からは勤め先の学校でも、夜間部を兼任することにした。年々、社会人やダブルスクールの受講生が増えており、従来的な昼間部の簡略版という姿勢では立ち行かないことがわかっていた。こうした外部講座での経験をふまえ、最適化したプログラムを検討して望むことにした。その際、軸となったのはタイポグラフィである。昼間部であれば前述のように河野三男さんがそのご担当であるから、僕としてはそこにでる必要はない。しかし、一年制であり一週間に4回というわずかな時間のなかで、デザインのスキルを身につける上では、あつかうものが言語であり、規格化されている活字によって成されるタイポグラフィは、夜間部受講生の底を固めるうえで重要な要素となった。河野さんの授業はもちろん、エミール・ルーダーの著作『タイポグラフィ』や、音楽教育——楽典やバークリー・メソッド——を参考にしつつ、これに昼間部で実施しているデザインにおける教養的な側面をふくめ、講座と配布テクストの設計・制作をおこなった。またここで試みた社会人向けデザイン教育プログラムは、2019年からはプライヴェート・レッスンというかたちで3ヶ月完結型の講座を実施できるようにもなってきた。

画像4

練馬区独立70周年記念展『サヴィニャック パリにかけたポスターの魔法』
展示関連講座(2018)

こうした一般教養としてのデザイン教育機会は、通常の仕事にくわえその時間外で行わなければならないので、なかなか大変ではあるが、現状のデザインを取り巻く状況をふまえてはもちろん、デザインの性格そのものをふまえても、必要なことだと認識している。


4|ヴィジュアル・コミュニケーションのデザイン

では、自分自身の専門がなにかと尋ねられると、それはヴィジュアル・コミュニケーションのデザインという言葉が最も適切であると考える。グラフィック・デザインともいえるかもしれないが、その語の最初が1922年のウィリアム・ドゥワイギンズによる肩書きであり、1960年に世界デザイン会議にて輸入され、それまで商業美術家・図案家とよばれていた方々が用いたという経緯をふまえると、どうもしっくりとこない。そこには印刷術に限定し、かつイラストレーションをはじめとしたファインアートに準ずる表現や、広告分野の領域で好んで使用されることをふまえると、自分自身の才能も目指すところも、そこにはないということを自覚するからだ。

勤め先の学校ではコミュニケーション・デザイン専攻を担当しているが、ここも従来的には広告制作専門家の育成という特色があった。しかしデザインの範囲をふまえるならば、それはあまりに限定的なもの。よくみれば河野三男さんによるタイポグラフィ教育はそうした領域を超える根源的なものでもあったし、サイン・デザインの授業を担当される竹内誠さん、エクスペリエンス・デザインの授業を担当されていた大林寛さんなど、広告の範疇に止まらないヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの可能性を内包していた。従来、そこが目指していた広告というものをヴィジュアル・コミュニケーションの一業種と位置付け、現在とこれからのヴィジュアル・コミュニケーションを、タイポグラフィ、インタラクティヴ・デザイン、サイン・デザイン、環境デザイン、グラフィック・デザインという種々の視点から考察し、実践する場として教育プログラムを編集したことも、今日、あるいは元来のデザインの領域と役割を認識するうえで重要なプロセスとなった。

また個人として依頼をいただく仕事も、基本的にはヴィジュアル・コミュニケーションのデザインといえるものがおおい。いくつか例をあげるなら、面出薫さんが武蔵野美術大学でのゼミ活動のアーカイヴをまとめた書籍『光のゼミナール』(鹿島出版会, 2013)では、そのゼミの卒業生ということもあり、編集作業とそれをふまえたブック・デザインをおこなった。おなじく面出さんとすすめた『インゴ・マウラー|詩情とハイテック』展(松屋銀座, 2019)では展示空間のキュレーションとともに、ダイレクトメールや冊子など各種作成した。風土形成事務所では主宰である廣瀬俊介さんとながい時間をかけ試行錯誤と意見交換をしながら、ロゴタイプに色彩計画、事務所案内冊子に書類フォーマットなど、ヴィジュアル・コミュニケーションに関する総合的なデザインをおこなったし、そうしたプロセスは菊池襖紙工場 伝統工芸室との『逸品集』に関したデザインも同様である。國盛麻衣佳さんによる著書『炭鉱と美術』(九州大学出版会, 2020)はブック・デザイン、それも表紙周りの装丁という範囲にとどまったが、ここでおこなったこともおなじプロセスを踏んでいる。

画像5

画像6

風土形成事務所におけるヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの一例

スタイリングとしての造形にとどまらないことはもちろん、対象の文脈を汲み、いかに編むのか。自分にとってのデザイン・ワークというのはそんなものかもしれない。


5|まとめ: 東洋的な見方 / 土着のモダニズム

学生時代に経験した西洋と東洋の、ひかり環境のちがい、そこで出会った谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、結果としてその延長となった欧文と和文、それぞれのタイポグラフィのちがい。さまざまな地域に身を置きながら実践したプロジェクト——そうしたなか、自然と日本における宗教性であるとか、土着的な思想に興味を持つようになりました。くわえていえば、かつて自分自身が教育されてきてきたモダニズムのデザインというのは、西洋的な宗教観・思想に基づき形成されていることが、薄皮をはぐように、ぼんやりと、だけれども確実な実感をもってみえてきた。

では日本におけるそれはなにか。産学連携業務で島根、福岡をはじめ各地をたずねる機会にめぐまれ、自分自身もさまざまな場をたずねるようになり、自然と気づいていったのは、そうした土着性への気づきだった。地域とか風土、そして場という、その領域は曖昧ながらも確かに存在する範囲を支えるものはなにか。固有性を導く環境と暮らし、それに根ざした宗教や思想、習慣というもの。そのような個々の文脈をふまえたデザインの可能性。幼い個人主義、幼い資本主義とは異なる、場としての、公としてのデザイン——それはもちろん、共産主義的・社会主義的なものでもなく、全体主義的なものでももちろんなく、都市対ローカルという単純な構図でもない。しかし、確実にそこに最適化されたデザインはあるのではないかというおもいが芽生えるようになった。ある時代にある地域(と、そこに培われた文化文明のうえで)で形成された様式を輸入したり、それに付け足しをする程度のモダニズムではなく、それぞれにとっての「わたしたちのモダニズム」を形成することが、現代におけるデザインの根源的な役割ではないだろうか。

つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる…添そこでわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれの藝術自体を歪めて行く。西洋人の方は、もともと自分たちの間で発達させた機械であるから、彼等の藝術に都合がいいように出来ているのは当り前である。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

この谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の一節がずっとあたまのなかにあった。そうしたとき、鈴木大拙にであうことになった。その広大な思想を理解したというのは到底及ばないし、僕がそうしたところで野狐禅にすぎない。だけれども、大拙のいう東洋的な見方というのは、現在もなお、否、現代こそ強度をもつ日本土着のモダニズム思想であると認識している。そして大拙を通じて、柳宗悦にふたたび出会うことになった。もともと『手仕事の日本』などは読んでいたし、子息である柳宗理さんは自分がデザインを目指したきっかけとなったひとである。大拙を通じてその親子をみることで、大拙の思想が、宗悦の運動となり、宗理のデザインとなる、その三代にわたる成熟を知ることとなる。

御多分にもれず、なのか。学のない僕は民藝運動を、アーツ・アンド・クラフツ的なるものと認識していた。しかし、それをつぶさにみれば、風土に根ざし、時間をかけて培われた、その場おおやけの技芸の再認識と、それによる、それに基づいたモダニズムであったということがわかってきた。その地に脈々と流れる潜在的な意識の顕在化である民藝。それは大拙思想のひとつの具現化であり、日本における、そしてその各地における近代へのアンサー、類い稀なモダニズムであったことがわかる。そして戦後の工業化時代において、民藝をデザインとしてモード・チェンジしたのが宗理さんであることも理解ができた。つまり漠然と憧れの念を抱いていた宗理デザインの基盤を理解することともなったのだった。こうした民藝、そして工芸への理解は工藝 風向 店主高木崇雄さんと、工芸 青花 編集長 菅野康晴さんのおはなしによるところが多分にある。

また2017年から2019年にかけ、国分寺 胡桃堂喫茶店の書店担当である今田順さんの企画のもと開催された連続読書会『日本の美を読む』に深入りできたことも、そうしたものの把握と整理のうえで、重要な経験となった。この読書会では、岡倉覚三『茶の本』、夏目漱石『草枕』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、柳宗悦『民藝四十年』、和辻哲郎『風土』、岡本太郎『今日の芸術』。そして鈴木大拙『東洋的な見方』、柳田國男『遠野物語』、白洲正子『お能』があつかわれ、その成果をまとめ胡桃堂喫茶店で配布するフリーペーパーを今田さんとともに執筆・編集・作成することになった。

画像7

読書会『日本の美を読む』報告冊子(胡桃堂喫茶店にて配付中)

これまでをふまえた、これからのモダニズムを見据えてゆくこと。
さて、鈴木大拙をはじめとした、近代における日本のモダニストたちのはなしをふまえると、いわゆる様式としてのモダニズムが目指したデザインとは異なる、デザイン感がみえてきた。前述のとおりバウハウスにまなび、ウルム造形大学の学長をつとめたマックス・ビルは「デザインとは——それが建築であれ、ヴィジュアル・デザインであれ、プロダクト・デザインであれ——すべて環境形成である」といった。アーツ・アンド・クラフツにおけるデザインの総合としての対象に「家」があり、バウハウスのそれが「ビルディング」であったことをふまえると、様式としてのモダニズムのデザインは同心円としての範囲のひろがりであることが理解できる。それは人間、つまり、わたしを中心として広がる環境。しかし、未分としての、つまり中心性のない、関係性としての環境もあるのではないか。大拙のいう環境のはなしを引用すれば……

近代の人々は何も殺風景になって、石は石でしかなくなった。人間と環境の区別が、生きたものと、死んで居るものということになった。それで環境は克服すべきもの、克服されるもの、何か物質的に人間に役立つべきものということになった……ここに二元的思索の非人情さ、みにくさが見られる……仏教の根本義は、自分とその環境をひとつのものに見るのである。草や木は言うまでもなく、石や土までの生きものになるのである。
鈴木大拙『石』

という塩梅になる。鑑賞者に明確な立ち位置をあたえる西洋絵画におけるリアリズムは写真的である。いっぽう長谷川等伯『松林図屏風』にあるリアリズムは、鑑賞者にあたかもその場にいるような湿度、空気を想起させる。大拙のいうはなしから連想したのはこの屏風絵である。環境問題はEnvironmental Effect、環境音楽はAmbient Music。マックス・ビルの言葉に象徴されるモダニズムのデザインにとっての環境は、おそらくはEnvironmentalという認識が適切であるだろうし、いっぽうで大拙のはなしをふまえると、Ambientとしての環境デザインもありえるのではいかとかんがえる。それをふまえ、なおさら民藝というものが、近代日本におけるモダニズムとしての環境デザインであったことも再認識するのだ。そしてそれこそが、空間デザインと場のデザインの差異であるのかもしれない。

最後に夏目漱石の言葉を引用したい。僕がこの十年をふまえて、気づいたことを象徴しているようにおもう。あらためてこの十年間に出会い、お世話になった方々、さまざまな機会と経験、過去の知恵に感謝するばかりだ。

しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足たしにはならないのだと諦あきらめました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟さとったのです。
夏目漱石『私の個人主義』


8 January 2020
中村将大

追記
こちらからはじまった冊子『中村将大の仕事 2009—2020』おかげさまで無事に完成いたしました。こちらの記事にまとめております。また制作原価(とはいえ、かなり高額ですが……)で若干部数、頒布することとしました [ 2020年7月14日 追記 ]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?