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人生はいろんなものに例えられるけれど。。。



こんにちは。ロンです♪

先週までの暖かい春の気配とは打って変わって、またまた一気に寒くになっていますが、みなさまお風邪など召されていませんか?

この寒さ、これが平年並みなのかな?先週までが暖かすぎて変だったのかもしれませんね。

僕は寝冷えしたのかわかりませんが、(たぶん変なものは食べた記憶がないので食あたり的なヤツではないと思うんですが) 昨日からずっとお腹が緩いです。
ごめんなさい、もしもお食事の前や最中の方は一度閉じて下さいね🙏

まぁ、端的に言うと水下痢って感じです。回数も多めで、既にお尻のあなあたりが痛くなってます。正露丸糖衣を4粒も飲んでもほとんど効き目がないので、んー😕ってなってます!!
不便なのが少しでも動くと"もよおします"。

だから基本的には何もせずにじっと寝ていればいいんです。とはいえ、やらなきゃいけない事もあるので、騙し騙しそろそろりんと動いて、様子を見ながら作業してる感じです。

お腹の機嫌が少し治ったかな?というタイミングを見計らってチビ達のお散歩にも行ってきました。


お腹の話はこれくらいでいいか!キリがないので💦



今日はロンの好きなものとかを紹介するのではなくて、最近少し考えてる事を書いておこうかなと思います。

人生は〇〇のようなもの。

タイトルにも書いたんですが、人生っていろんなものに例えられることがありますよね。

例えを挙げてみますと

人生はマラソンのよう。


目標の距離(42.195kmとは限らない)だったり、目標とする時間だったり、自分のモチベーションだったり、全て人それぞれであって、でも必ずゴールは訪れる。
ゴールという言い方が合っているかどうかは別にして、終わりが来るという意味ですね。

ちゃんとゴールテープを切れる人。目標にしていた距離を走り切って、しかも目標の時間内に走り抜く人もいるだろうし、それはそれでものすごく努力したのだろうなぁと拍手したくなります。

或いは、道半ば途中で辛くなってリタイアしてしまう人もいるでしょう。
走る事自体が辛い場合もあれば、体調が悪くなってやむを得ずに棄権しなければならなくなるという場合もある。

はたまた、走っている事自体の意味がわからなくなって、何で走らなきゃいけないの?と馬鹿馬鹿しくなって走るのをやめてしまう人もいる事でしょう。

マラソンに参加する事を決める時。
それに向けてトレーニングしている時。
いよいよ走り始める前。
走り始めた直後のドキドキする気持ち。
だんだん苦しくなってきた時。
それでも怠けたくなる自分に負けまいとチカラを振り絞る時。
怠心に負けてしまう時。
負けずに走り抜いた瞬間。
息を切らし汗を拭い水分を補給して笑う時。
良くがんばったと周囲から祝福されている時。
走りきれなくてもまたチャレンジすればいいと慰められる時。
こんな事であきらめないぞ!また挑戦してやる!と思い直す時。
翌日の疲労感いっぱいだけど、自分を褒めたいと思う時。

一度でいいからフルマラソン走ってみたいって何度か思って
絶対無理ってなる人です!




よく樹木にも例えられます。

種子が撒かれて(受精して)
土の中で水や養分を吸い取って(お母さんのお腹の中でお母さんから栄養をもらって)
発芽して双葉が出て(オギャアと産まれて)
光合成して(いろんな経験をして)
どんどん大きく高く成長する(大人になる)
季節が過ぎると枯れて葉を落とし(歳を重ね老いる)
それは土に帰り(役目を終えて死を迎える)
新たな命を育てる為の栄養になる(後世に何かを託し天に召される)


木々も人も生まれて育ち老いて朽ちる。
そして次の世代へバトンを渡してゆく。



うーむ。
このような例え。
実にうまく出来ていると思います。

万物が生まれ消えていくストーリーや法則は、遺伝子情報有きで決まってしまう?

つまりは、万物がひとつの形となり消えるまでには同じようなストーリーというか法則みたいなもの(それ自体がDNA、遺伝子情報だったりするのかもしれませんが)で組み立てられているんですね、きっと。


宇宙や天体、地球すらそのストーリーや法則の中の小さなひとつなのかもしれません。

だからと言って、自分の人生が生まれた時から死んでいく時まで、遺伝子情報のままに全てが決まってしまっていると考えたくはないでしょう?


そういうストーリーみたいな傾向は、大まかにはあるかもしれないし、親に似てくるみたいな部分も否応なしにあると思うんだけれど、そこにやっぱり、何兆分の一くらいの確率の気まぐれみたいなものを盛り込んで、自分なりの人生を形作りたいと思うんですよね。無理なのかもしれない。うん。それすら遺伝子情報なのかもしれない。

確かに大きな流れみたいなものは、マラソンであったり、樹木のようであったりに例えられるようなカタチなのかもしれない。

だけど、例えばマラソンの走る時のフォームだったり、樹木の葉っぱ一枚一枚の形まで、全くみんな同じって事はないわけで。

自分の存在証明は自分自身でカタチにしたい

つまり、人生を何に例えるかは別に何に例えたって構わないんですが、自分の存在証明みたいなものがあるとすれば、それは自分で決めていきたいと思うし、そうありたいなぁと思うんですよ。あくまでも誰かや何かに決められたカタチに則ったものではなくてね。

もちろん、無闇にオリジナリティとかアイデンティティみたいなものを作り出したいというわけでもないけれど、やっぱりこの世に生を受けた以上は、DNAがこうだからコレで仕方ない…という具合に割り切りたくはないなと思うんです。


お散歩中に、川辺に立つ木を見たり、土手を走っている人を見ながら、そんな事をツラツラと考えていたりします。


今日もお付き合いいただきありがとうございました。

本当に毎日、毎週のように気候の変化が大きいので、みなさん風邪などお召しにならないように気を付けてお過ごし下さいね。


良かったらいいね🧡かコメントいただけるとうれしいです。


それではまた👋

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