生きること、学ぶこと
曖昧さの価値とは何か?
再び、宮下史朗を読み想う。「ラブレー 周遊記」である。宮下はラブレーが「パンタグリュエル」で示したものは「曖昧さの価値」という。すなわち、「ラブレーは、何がこの傑作の真髄で、何が究極のテーマであるかけっして明らかにしない。読者にその解釈をゆだねている。曖昧さや多義性をはらんだダイナミックな作品を、開かれた書物として提示し、読者に解釈を委ねる。意図的、積極的な曖昧さが存在する。読者に「汝を知れ」という意図的な作為がある」という。
パンタグリュエルがソクラテスを目指して勉学したのは全知全能を目指すことでなく美醜の裏にある賢明さを獲得することであるが、それもパンタギュリエルにはノーという裁きを与える。
とはいえ、「自己回復」「贖罪」が主題であることは間違いない。そして慈愛、宇宙の中の人間を知るのであるが。こんな物語でも読者はがむしゃらに熟読して深く理解しないといくら読んでも賢者への道は開けませんという。
「自分自身を超えていく向こうに到達点があるのではない。学習の先の到達点はただひたすら不完全から自身の核心に向かって自分自身を超えていく飛躍である。人間の現実は欠けている状態からは決して脱することはできない。」(サルトル)
サルトルのアンガージュマンを最後まで意識していた大江健三郎は、「早すぎる判断を回避して、自分の能力と持続エネルギーの許す限り周到に学ぶことを続けることです」という。
私たちは、「他者の環世界とのつながり」を求めて新しい価値を生み出していくことができるし、思考は継続的な深まりを続けていく。その過程で、自分の核心に迫ってくるものを探し続けるしかない。しかし決して完全なものは存在しないということを知りながらである。
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