生きること、学ぶこと


(問い)リベラルアーツ革命とは?



松井範惇の「大学入試・授業のリベラルアーツ革命」「リベラル教育とアメリカの大学」を読む。松井は飢餓や貧困問題に取り組む経済学者である。

偶々行った米国のリベラルアーツカッレジであるオハイオ州のケニヨン大学での教師の経験が松井の人生を大きく変えた。「最初の授業で学生が自分の話していることを全て理解していくのが見えた。教師で初めの経験である。この学生たちがやがて社会のリーダーになっていくのだと思う。このような状況がまさにリベラルアーツなのだと思った。」(松井・土持対談より)学生は、次々と自分のところに来て、もっともっと色々なことを教えて欲しいと言う。つまり、Teaching & Learningであり、学生と教師が共に学ぶのである。教師が面白くないのに学生が面白いはずがない。

アメリカのリベラルアーツカレッジで学生が授業で質問をするのは、事前学習により疑問を持って授業に臨んでいることと、受講生がいろいろな専門分野から来ていることがある。 

松井が最初に定義したことがある。「そもそも教育が人間を幸福にするというのは大きな間違いではないか。これは教育の本質的な目的ではない。」

アマルティア・センの「可能力」について考える。日本の偏差値「学力」は完全に間違っている。人間の基本的な能力とは選択肢を増やす「可能力」であると考える。
「人々が自由に、自分のしたいことができ、なりたいものになれ、行きたいところに行ける。----恥じることなく外を歩ける。自分の関わるコミュニティで議論に加わってその決定に参加できる。そして他の人の生の豊さにも貢献し、そういった活動から自尊心を得る。」(セン)

「可能力」を育てるのがリベラルアーツである。それは、「いかに」学ぶかを知り、「問い」を持つことであり、問題を発見する力(問題を解決する力ではない、PBLの課題でもある)、「学び方」と「学ぶ意欲」を学ぶということである。アメリカのリベラルアーツカレッジは、このことを大学全体が理解して、組織的に取り組むのである。

日本では「リベラル」という言葉が十分には理解されていない。単なる教養ではない。「広さと深さ」の両方を学ぶことであり、それは人間を学ぶことである。

日本でも個人がリベラルアーツを身につけるにはどうしたらよいのだろうか?と言う質問に対して、個人一人ひとりの「可能力」を、広さと深さを持って考える社会に変えていくことではないかと指摘する。私たちはもっと自信を持ってコミュニティに参加していかなければならないのだろう。

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