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生きること、学ぶこと


義務教育の主体は誰か? 混迷するPTAとは?




「次の役員の成手がいない?」「ボランティアなのに、なぜこんなに時間をとられるの?」「先生もすごい負担で悩んでいる」公立小中学校での現場である。高齢化した自治会と同じような話が全国のPTAで起こっている。

米国で始まったPTAは、現在加盟しているのは25%ほどであり、米国でも困窮している。これに変わり個々の学校の環境に合わせて行うPTO(Organization)という形態も生まれている。違いは、徹底してボランティアである点にある。楽しいと思える人、時間のある人が、その範囲内でやる。

日本には憲法26条に、親の教育権を補完するまたは制限するものとして、子女を9年間学校に通わせることが義務付けられている。そもそも、教育の国の負担はOECD加盟国の中で、日本は底である。家庭が犠牲を強いられる構造である。PTA活動は、学校の活動のある分野またはその関連へのボランティア的家庭の支援であり、あくまでも任意であるが、社会的にはそうでなかった。あるのが当たり前の半ば強制的な活動になっていた。

教育を受ける主体は子供であり、教育を実施する主体は学校である。親も無関心ではあり得ないので、できる協力はする。しかし、PTAがアプリオリにその活動に組み込まれていくのはちがっているのではないだろうか。

日本は既得権利から物事を見る傾向が強い。「今までこうしてやってきた」という考えである。DXが進まないのも、大きな変革には抵抗があるためである。

本来はPT Aがなくても学校で機能できることなのである。いな、学校(憲法で親に子女の教育を義務付けているのだから)でやらなければならない。

現在全国の公立小中学校でPTAの内容、組織見直しが議論されているが、多くは、なくてもやっていけるという考えには立っていない。反対にPTAの必要性や魅力を挙げてボランティア精神に訴える。見直しも今の内容を前提として、消去法で少しずつ負担を減らす、あるいはやり方の変更(便利さ、スマホの活用など)で誤魔化すのである。従って、現在の活動の効果を検証することなどはしない極めて感覚的な判断でこれを進めている。

こうは考えられないだろうか。社会事情が変わり、PTAの成り手が少ないのだから、最低限のことだけ決めて、限られた人数内でできることをやれば良い。最初に組織ありきは絶対にうまくいかない。どうしても足りないボランティアは、隠居して遊んでいる高齢者に声を掛ければ皆喜んで参加してくれる。PTAが社会問題化している今、小さな見直しではすぐに息詰まる。PTAがないと本当に困ることだけを考えるべきである。

今学校の働き方改革の議論の真っ最中である。PTA活動が負担になり、本来の教育に手抜きが生まれることにでもなれば本末転倒ではないだろうか?


                              (読売新聞より)


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