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『ソロ戦争』#2 弟の誕生から私が家を出るまで

自分の体験も交えながら女性の生き方について考え、結婚もせず子供も産まない「ソロ」としての生き方を模索するシリーズ。第1回『三姉妹の長女』では、私の子供時代について書きました。

おちんちんを拾って生まれてきた弟

三姉妹の長女として、「跡取り」として厳しく育てられた私。が、私が10歳のとき、突如弟が誕生します。

弟が生まれた日のことはよく覚えています。私は妹2人とともに祖母の家に預けられていました。当時は生まれるまで男の子か女の子かわかりませんでした。いよいよ生まれるとなったとき、みんな「どっちだろう・・・」とワクワクしていました。祖母の家に、父から「生まれた」と電話がかかってきました。電話を受けたのは叔母でした。生まれたのが男の子だったと知ったときの自分の気持ちを、私は今でも忘れることができません。

私はホッとしたのです。もう自分は「跡取り」じゃなくなった。もうこの家に縛られることなく、自由に生きられるんだ。家を出て行ってもいい。東京でもどこでも、好きなところに行って暮らせるんだ(私は子供のころから東京に憧れを持っていました)。一気に肩の荷が下りたような気持ちでした。

周りは大変なお祭り騒ぎでした。3人も女の子が続いた家に、やっと男の子が誕生したのです。「でかした!」「今までお姉ちゃんたちが拾い忘れたおちんちんを拾って生まれてきてくれた」そんな言い方をされていました。

地方においてはとくに、やっぱり長男が重視されます。たとえば私の家では今でもお正月に神棚を飾っているのですが、神棚を飾ったり神棚のろうそくに火をつけるのは、男性でなければなりません。父でなければ弟、弟もいなければまだ小さな甥(妹の子供)がその役割を担います。女性はいっぱいいるのに、ここでは用なしというわけです。そして皆、そのことになんの疑問も持っていないようです。

とにかく父にとっても母にとっても待望の男の子。2人の関心と愛情は一気に弟に注がれることになります。とくに父は弟を溺愛していました。私がちょっとでも弟をからかったりするようなことがあれば、烈火のごとく怒られました。

これは理不尽だと思いました。考えてみれば、弟自身がなにかを成し遂げたわけではありません。弟はただ生まれてきただけです。生まれてきたらおちんちんがついていた、それだけです。それだけのことなのに、みんながちやほやします。そして、おちんちんを拾えなかった私や妹たちは、「しくじった」存在、なにかが欠落している存在、として扱われます。

でも、私も妹たちも、年の離れた弟をかわいがりました。赤ちゃんのときの弟は本当にかわいかったです。弟がなにかを成し遂げたわけではありませんが、なにも悪いことをしたわけでもないのです。ただ生まれただけなのですから。

「いい子」でいるのをやめた

さて、「跡取り」としての意識をなくした私は、もうそんなにがんばらなくていいや、と思うようになりました。妹たちも小学生になり、外に友達もできて、もう私が面倒を見ないといけないこともありません。

11歳のときだったと思います。母に「お姉ちゃん」と呼びかけられたとき、私はとっさに「私はお母さんのお姉ちゃんじゃない!」と言いました。母はびっくりして言葉をなくしていました。そのときこうも言いました。「もういい子でいるのやめる」。私なりの宣戦布告でした。

子供のころあまりにも「いい子」だったことの反動か、中学、高校と、ずっと反抗期でした。母とさんざんやりあいました。私は、早くこの家を出て行きたい、ということしか考えていませんでした。

そのころの後悔としては、自分が希望した高校に行けなかったことです。40も過ぎてそんなこと、と思うかもしれません。でも、中学時代や高校時代というのは、「そのとき」しかありません。自分が行きたい学校へ行ってやりたいことをする。友達を作って青春を謳歌する。それはそのときにしかできないことです。

私は成績がよかったのが仇になりました。見栄坊の父が、私を進学校である女子高に行かせたがったのです。私が行きたかったのは共学の高校でした。中学からずっと吹奏楽部に入っており、行きたい高校は吹奏楽で有名だったのです。父が行かせようとしていた高校には、吹奏楽部はありませんでした。

私はもちろん反発しました。すると父は、共学の高校を受けるのなら私立は受けさせない、と言い出しました。私の成績だったら滑り止めの私立を受けなくても、その共学の高校に受かっていたと思います。が、私は当時から心配性でした。万一受験に失敗して高校浪人になったらどうしよう。そんな不安から、結局は父の意向を受け容れ、望まない高校へ進学しました。

そこではなんの面白味もない3年間を過ごしました。勉強もしなくなり、成績はどんどん落ちていきました。大学受験にも失敗しました。

早稲田に合格し、合法的に家出した

でも私は実家を出るため、東京の大学に受かる必要がありました。それも父が納得するような有名大学でなければなりません。

浪人時代、和田秀樹の本に出合いました。一日3時間の勉強で志望校に合格できる、というのです。私は当時から努力が嫌いでしたから、一日3時間も勉強すれば十分だと思いました。

東京の私大で有名どころといえば早稲田、慶應、上智です。文系の私大の受験科目は少なく、英語、国語、小論文のみ。私が苦手だったのは英語だけなので、これさえなんとかすればいけるんじゃないかと思いました。

和田秀樹の分析によれば、慶應は英語の長文読解が難しく、上智はヒアリングが難しいとのことでした。一方早稲田は、ほかに比べると長文読解やヒアリングのボリュームは少なく、文法問題が多めで、暗記が得意であればいける、とのこと。必然的に早稲田に決まりました。早稲田はもともと行きたい大学でした。寺山修司、栗本薫、村上春樹など、好きな作家がことごとく早稲田出身だったからです。

私は和田秀樹の提唱する勉強法(とにかく過去問を徹底的にやる)をやり、参考書も和田秀樹のおすすめのものを買いそろえて繰り返し使いました。そして私は早稲田に合格しました。一文は落ちてしまいましたが、二文に受かったのです。二文といえども偏差値はまあ高いですし、田舎の人にとっては「早稲田に受かった」ということが重要なのであり、学部など関係ありません。父も母も親戚もたいそう喜んでくれました。なにしろこんな田舎から東京へ行く人自体が珍しいのに、早稲田に合格したのです。父の兄である叔父からは、入学祝として50万円をぽんと渡されました(この叔父は社長で、父とともに建設会社を運営していました)。

こうして私は堂々と合法的に家出をしました。もう、実家に帰ってくるつもりはありませんでした。



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