夜、私たちは一緒に歩いてる音に心を向けた。
たまたま恵比寿のお店で出会したフランス人がいた。
彼の名前は、フェオ。
話を聴くと、フェオは絵を描いているアーティストで、仕事で日本に来たそう。
お互いメルボルンに住んでいたことがあり、打ち解けるのに時間はかからなかった。
二人とも旅行が好きで、どの国が好きか聞かれて「エジプトかなぁ。」と言ったら彼のお父さんがエジプト人で、毎年行っているらしい。
ご縁ということでいいでしょうか。
明後日フランスに帰るから、明日は特に何も予定を入れてないと言っていたので、「それなら私が日本を案内するよ!」と言って連絡先を交換した。
次の日私は看護師の友達ともう一人、前のシェアハウスで一緒に住んでいたフランス人を招集した。
せっかく私の大好きな日本に来てくれたのだから、"おもてなし"をしたいと思った。
舞台は、私が住んでいるお気に入りのシェアハウス。
"私だからできること"を考えて、普通に観光に来ただけではできないであろう手巻き寿司パーティーをすることにした。
あぁ、自画自讃だけど、みんなでわいわい美味しいお寿司を作って食べれるという体験型エンタメは最高すぎた。
各々で好きな具を合わせて「どんな味になるかな。」って思いながら食べてるのも、またいい。
とろろよかったな。
とろろって山芋じゃないですか。
英語で説明するときにふと、気づいた。
山芋を削ったらとろろって名前に変わるの、面白いなって。
私を削ったら、何て名前になるのだろうかなんてくだらないことを考えながら黙って食べた。
ひとしきりお腹膨らんだ後は、みんなで屋上へ。
風の匂いがさ、あぁもう春だなぁって思った。
春の風の匂いってさ、卒業式とか入学式とか、新社会人になって新生活を始めるときなどの感覚として身体にインプットされてるよな。
嬉しいけど、ちょっと切なくて、不安とワクワク感が混ざってる感じのあれだ。
歌ったり、写真を撮ったりなどしていたら日が暮れて、お腹も空いたので、もんじゃを食べに行った。
もんじゃ焼き屋さんだけど、おでんもあったので注文した。
毎回フェオに日本食を食べてもらった後に「How does it taste?」って鼻の穴を大きくして聞く私には、「Nice!Good!」と答えるしかなかっただろう。
でもやっぱり日本の良さはちゃんと感じて帰ってもらいたいじゃん。
私はフェオの感想を聞くたびに、にんまりした。
またしても満腹になった私は、ダイエット中なので少し罪悪感を覚え、散歩を提案した。
みんなでそろそろと歩いて、お寺で参拝して、おみくじも引いた。
フェオが引いたのは、吉だった。
私は「吉が一番運が良いよ!」と根拠もなく言った。
友達は次の予定があるからバイバイした。
そしたら今度はフェオの友達がやってきた。
友達のSさんは日本人で、哲学者であり、アーティストであり、映画監督だった。
そんな異色のメンバーで、流れでシーシャに行くことに。
二つのシーシャを、三人でシェアすることにした。
シェアするとき、シーシャのパイプを交差すると絡まってしまう。
ちょっと面倒。
でもその面倒なことは、一人では起こらないことだよなぁと思ったら、なんか幸せな気持ちになった。
非効率的なことを、贅沢に感じることもあるもんだなと。
それを二人にも伝えたら、「そんな感覚を感じる二十代の女の子がいるということは、勉強になった。」と言われて、ちょっと照れた。
普通だったら「何言ってんの(笑)」で終わる感想だと思うし、そうなると思うから普段そんなこと思っても言わないけど、なんか言いたくなってぼそっと話してみた。
だからこそ、その感覚を受け止めてくれるどころか褒めてくれたから、こういう「自分だけかも」「変な人って思われるかも」ということを人に伝えてみることは、意外な展開を引き寄せるのではなどと思った。
そうでなくても、自分の変態性はちゃんと育てていったほうがいい。
自分の人生を創っていくのは自分だけだし、その人生というエンタメを面白くさせるには、とことん尖らせることが近道ではないかと思う。
深く深く尖らせれば、穴の大きさは自然と広がると有名な作家が言っていた。
平穏で幸せな人生もいいけど、どうせ人生一度きりなのであれば、"自分"というエンタメを世界で一番面白くさせるために、もがきながら生きていきたい。
そのもがいている過程を経験できることこそ、人間で生まれた最上級の理由かもしれない。
そんなことを改めて強く心に刻んだ夜だった。
そんな夜、私たちは一緒に歩いてる音に心を向けた。
太陽が沈んで目に見える世界が暗くなると、その間聴覚がいつもより敏感になる。
街の静けさと、自分たちの歩いてる足音だけが聴こえる。
昼下がりの外国語が飛び交う賑やかな浅草では聴けない音であり、三人の足音のアンサンブルは今日しか聴けない音楽だった。
音楽鑑賞の舞台である「夜道」という言葉のもつ意味を感じたから、彼らにも伝えてみた。
まず、"よみち"という言葉の音が好きだ。
あとは、世界を一人占めしているような感覚になれるのがいい。
昼とは違う街の顔をみれるのはどことなく背徳感もあるし、世界に暗やみが広がっているというだけで"あの夜"を彷彿とさせる、切なさがある。
そのとき感じていた"夜道がいい"という感覚は複雑なニュアンスだったから、言語化するのを厭った。
だから「夜道っていいですよね。」とだけ呟くようにぼそっと吐いた。
「その感覚いいね。」と返ってきた。
自分が感じていた夜道に対する感情について、分かり合えたのだと思いたいが、分かり合えたのはせいぜい一部分だろう。
みんな各々のバックグラウンドがあって、今ここにいる。
でも、その一部分でも分かり合えたのだろうという期待を抱けることが心地がよかった。
そんなことを思っている私の隣で、Sさんは腹ぺこだったらしい。
だから、私のおすすめの蒙古タンメンの汁なし麻辛麺とサンドイッチと、ビール。
それらをコンビニで手に入れて、再びシェアハウスへ戻った。
お昼の手巻き寿司の残りがあったので、Sさんにも差し出した。
スタートダッシュを切ったかのように早いスピードで空腹を満たしだしたSさんは、「うまい、、うまい!!手料理(手巻き寿司)なんて久しぶりだ!!うん、、、美味しい。」と発する言葉だけでなく、心も身体も、全てが唸っていた。
夜のしんとした広いリビングに、咀嚼音や食べているときに箸が皿に当たる音が、生き生きと響いていた。
フェオはそれをみて何かを感じて、スケッチブックを取り出しておもむろにその光景を描き始めた。
私もその空間に何かを感じ、その光景と、その光景を描いているフェオの姿をすかさず動画に納めた。
そうやって私たちは一緒に、目に見えているものと見えないものを混和させた空間を創造した。
そのときの私たちは、そこにあった"目に見えないもの"が同じようにみえていたのだと思う。
感じることは、それぞれだったかな。
それがその夜の私にとって、ものすごく贅沢なアートだった。
そういうものは、いつだって意識を向ければ、アートになる。
そんなことを覚えた私は、屋上で誰一人言葉を介さない間、春の夜風に意識を向けた。
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