今回くらいから、このブログ読まない方が良いかも知れません。って話です。


寝台列車に揺られていました。

パリからベネチアへ向かうには、寝台列車で一泊分のホテル代を浮かしつつ、一晩で移動出来るというコスパの良い列車があったのです。

この旅で、僕は度々こういう寝台列車に乗ってヨーロッパを移動しました。

列車の振動が気持ち良かったのと、上下対面に来る人達とのちょっとした距離感のある会話がちょうど良かったのです。

もちろんその夜は人生で初めての寝台列車でしたので、なかなか寝付けずに、子供の頃の事なんかをぼんやり思い出していました。

《こんなとこで、そんな話されてもクソつまんねーよって内容だとは思うんですが、旅の核心にも触れる事ではあるので、、、すみませんボチボチ書きます。》

淡い記憶は、まだ新潟に住んでいた頃であり、陽光に包まれた楽しい思い出しかありません。

幼稚園で向日葵の種を食べた事。友達とずっと楽しく笑ってた事。
姉と一緒に近所の犬と遊んだ事。ネズミ花火から逃げ惑って両親や姉と笑っていた事。

そんな記憶は陽光と共にあるのですが、親父の仕事の都合で富山に引っ越してきてからは曇空の灰色に一変します。

県外から引っ越して来た僕は、方言が違うという理由で、保育園の頃なんかは結構いじめられました。遊びに混ぜてって言うのを新潟にいた頃は寄せてって言いました。そんな些細なきっかけだったんですが、いじめられてるという意味も分からずにいじめられていました。

保育園でのイジメと言っても幼児ゆえか意外と苛烈で、階段から突き落とされたり、ジャングルジムから蹴落とされたりもしてましたね。

僕はその状況の意味が全く分からずにただ泣いてばかりいました。

あまりに泣いてばっかり居たので、両親ともにとてもガッカリされてた記憶が強いです。


そして保育園では母ちゃんが何故か全然迎えに来てくれなくて、夜8時くらいまで1人で待ってたりもよくありました。

そのくらいの時間迎えに来ない日が続くと、保育士の方も当然ですがイライラしてて怖いんですよね。

もう誰も迎えに来てくれないんじゃないかって毎晩思っていました。

多分この頃は、そこら辺の犬よりも保育園の玄関を母を待ち侘びて、半ベソかいて見つめていたと思います。

今でも待つのが異常に嫌なのは、この辺に理由があるのかもしれません。

いや、母ちゃんは根は優しかったですし、まあいつもイライラしてエキセントリックでしたが、別に恨んでる訳ではないです。むしろ感謝しかありません。必ず最後は迎えに来てくれましたしね。

さて小学生にもなった頃に、腕の骨が折れる程の怪我をさせられたのを機に一念発起しまして、いじめられないように、相手の目に指を入れてでも勝つとか、結構殺す気の喧嘩をするようになりました。

大体、1月生まれですし、そのくらいの年齢だと虐めてくる奴って自分よりかなりデカイ奴が多いので、勝つにはそれしかなかったんですよね。


母ちゃん負けるな男やろってうるさいしね。


しかしながらこれが良くなかったのです。今思えば当たり前ですが、そういう事をする危険な子供なので学校から注意でも来たんですかね。それとも家でも普段からダメな人間だった可能性もかなり高いですが。

目に見えて親父が自分を嫌ってるのが分かるようなりました。

最初は遊んでくれてるんですが、面倒になるのか自分が何かしてしまったのか分かりませんが、何かのきっかけで、絞技で首をしめてきたり関節を決められたりが多くなりました。

範馬勇次郎かよっ!って今ならツッコミも入れれますが、当時は喘息持ちでそれでなくともしょっちゅう呼吸不全になってたので本当に死の恐怖でしたね。

殴られたり蹴られたりはなかったと思いますが、絞め技はよくありました。

完全に身動き出来なく押さえつけられた状態で、首を絞められ息も出来ずに意識が遠のく恐怖は、実は今でも震えてしまいます。

もしかして今でも身動きしづらい狭いところが超嫌いなのは、このせいかもって今気付きましたよ。

これ書いてて、今、冷静に考えて、親に首絞められるのが日常茶飯事っておかしいだろ!!ホワーイ ジャパニーズピーポー!!!


よく生きてんな俺。

まあこの通り死んでないので、もしかするとそれなりに手加減してくれてたんだとは思うので、その優しさに感謝するしかないですね!!ってなるかバカ!!


さて大人にそんなんされてるので、子供同士の喧嘩はより強く、正直言うとより残虐になってくんですが、そのせいでより問題児になっていたと思います。

友達が出来ない。

イジメから脱出するのに暴力を使う事で、恐れられるようになるんですが、なんとそれだと怖がられるだけで友達なぞ出来るわけがないんです。


とはいえ、どうしていいのか分からない。 


家で毎日親父の顔色を伺って身の安全を図っていたので、友達が自分を怖がって嫌ってるけど、怖いから仕方なく相手してるってくらいは判断出来てしまうんですよね。

それはとても辛い事でした。


その頃から親父は単身赴任になって、週に1回帰ってくるだけになりました。

僕は親父が心底怖かったですが、それでもまだ僕は親父を嫌ってるわけではなかったので、不思議な気持ちになったのを覚えています。

人や家族を嫌うって意味や、やり方も分かっていなかったんだと思います。学校で喧嘩はめちゃくちゃしてましたが、別に誰も嫌いではなかったんです。

しかしながら、母ちゃんと姉が親父の居ない間は朝から晩まで休まず親父の悪口を言ってました。

今なら女なんてそんなもんだって分かるんですが、まだ小ニとかでしたので、凄く嫌な気分でした。

親父が帰ったら嘘のように態度が一変するのに辟易してしまっていました。

そして親父は帰ってくると、やはり出来の悪い僕を嫌って罵ってくるのでした。

親父の知り合いのなんじゃらさんの息子さんはこんなに凄いのに、お前は生きてても何もないなとかよく言われてたのを覚えています。

首絞められるよりも、こういうのの方がキツかったな。


とにかくどうしていいか分からない。


しだいに僕は1人でずっと部屋に篭るようになります。

おばあちゃんが天体望遠鏡を買ってくれたので、それで星ばかり見るようになっていました。

天文学者になれなくて、本当に申し訳ないと今でも思ってます。おばあちゃん。

その代わりと言ってはなんですが、宇宙みたいなタイダイ染めは創っていますよ。意味ねーかもですけどね。


あの頃、星や宇宙の話、星座にまつわる神話の数々。

人間の感情とまるっきり関係のない星の科学的な数字の話や、神様なのに人間と同じ感情丸出しの神話の話を読み耽りながら、星を見る事の出来る夜のおかげで何とか暮らしていけました。


長くなりましたねー今回のお話は。。すみません。これが小2とか小3くらいまでのお話です。


夜行列車から見る星々は、海外でも変わる事なく、夜を彩っていて、僕はこの旅のために安さに釣られて買ったプーマのゴアテックスの靴の、気に入らない紫色の配色の部分をマジックで黒に塗り潰した箇所をやっぱ変だったかなとか思いつつ、どこまでも深く自分と向き合うようになっていきました。

インターネットも携帯もない一人旅の夜。知ってる人間は自分しかいなかったですしね。


何が足りないのか、何を求めているのか、別に自分を探してるわけでは全然なかったんですけど、
色んな事と引き換えにせっかく旅に出たのですから、何かを得たいと思っていました。



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