スポーツでは自分は隠しきれない説

 スポーツ、身体を動かすということは、普段隠している自分が表現”されて”しまう、そんな行為だと思います。

スポーツにおける没入

 よく、「ピッチフロアに入ればスイッチが入る」なんて言いますが、私はこの言葉に深く共感しています。

 これは私の経験ですが、新体操は13メートル四方のマットの上で競技を行います。このマット上のことを「フロア」と呼びますが、フロアに入れば自分の世界に入ります。団体においては、先輩後輩も関係なく、それぞれが一人の演技者として、お互い遠慮なく意見を言い合います。実際、「フロアに入れば上下関係も関係ない」と先生に指導されてきました。そして私もその通りだと思っていました。一つの作品を作り上げる上で、先輩だからって遠慮するのは”妥協”だと思っていたからです。

 このように、スポーツ実践者は自分のフィールドに入れば人が変わったかのようになるというのは、多くのスポーツ経験者が共感できる事象ではないでしょうか。これは、スポーツという行為がその人を開放させているんだとおもいます。

 学校現場で考えてみましょう。体育の授業で、なぜか熱くなってしまって友達と衝突してしまった経験はないでしょうか?また、そのような状況を目にしたことはありませんか?私は教育を学ぶ学生ですので、実習やスポーツ指導で子どもに携わることが多いですが、このような場面はよく見受けられます。実際に教師をしていた方も、よく見る現象だとおっしゃっていました。普段、おとなしくて静かに話を聞いている子が、体育や休み時間のドッジボールで喧嘩してしまう。これはなぜなんでしょうか。

 これはやはり、スポーツという行為が、その人を開放させているからだと思います。普段押し込めているもの、自分の中での「こだわり」や「欲望」、それが身体を思いっきり動かすという行為の中で抑えきれなくなっている。これが原因なのではないかと思います。スポーツは、人を開放させる。つまり、ホンネで相手と向き合えるツールであるのです。

ホンネとタテマエ

 スポーツにおける「ホンネ」は、私が意図しているのは、「本音で話せー!」と言われて正直に話すといったものではなく、無意識のうちに自分の本心が出てしまうということです。

 例えば、何か講演を聞いたとします。正直あまり面白くなかった。そんな講演で最後にアンケートを求められます。記述式のアンケートは、思っていことをすらすらと書けてしまいます。ですが、思いっきり身体を動かすスポーツにおいては、面白い・面白くないの感情は嘘がつけません。これは言葉にしなくても、表情や行動で読み取れるものです。「あっこの子は本当に楽しいんだな」「あまり面白くないんだな」ということが、言葉にしない方法で見ている人に伝わってしまう。これがスポーツなんだと思います。

 また、普段から気になる行動をとる友人がいたとします。普通に話しているときは、気になるものの、我慢できるので見て見ぬふりをする。しかし一緒にスポーツをする機会があったとします。一緒にプレーするうちに、相手の気になる行動は顕著になり、さらに自分も普段我慢できていた器が小さくなります。そこで自分の感情に嘘をついて、思いを隠しとおすことは、なかなか難しくなってくるのです。普段タテマエでの付き合いでできていても、スポーツにおいてはホンネが出てしまう。タテマエで付き合える「会話」や「文章」などの表現とは異なる部分だと思います。

ダイレクトじゃないから表現ができる

 私はよく、自分の思考を整理するために、自分の思いを文字に起こします。このnoteもそのようなツールの一つです。ですが、文字にするというのは、自分の思いがダイレクトに見える形になってしまいます。怒られたことなど、あまりよくない思いを整理するのには、少し抵抗があります。また、いつも文字に起こせるような感情というわけではなく、曖昧な感情を整理したいと思いこともあるのです。

 そんなときに、身体を動かすことはちょうどいい気がします。どこで聞いた話か記憶が定かではないですが、悲しい経験をして心を閉ざしてしまった子どもが、文章を書いたり話をすることでは変化がなかったにも関わらず、演劇をすることではじめて感情を露わにすることができたという事例があるそうです。身体を動かして表現をするということは、自分の感情をダイレクトに伝えるものではない。しかし、ダイレクトじゃないから表に出せる表現ツールであるのが身体を動かすことであると思います。

 余談ですが、私が新体操をしているときにも同じような経験をしたことがあります。そのシーズンは私には珍しく、個人競技で全国に行けるチャンスがある年でした。この試合でいい順位に入れば、全国への切符が手に入るチャンス。そんな試合で、漠然と「全国の舞台に立ちたい!」と思いながら演技をしました。結果は「上位の選手が地区大会でいい成績であれば全国に行ける」という棚ぼた狙いのような状況で試合を終えたのですが…。演技を見た先生からは「いい演技だった。全国に行きたいという思いが伝わってきたよ」と言われました。先生には、私が全国に行きたいとは一言も言っておらず、先生からもそのような発言はされていなかったのですが、自分の思いが演技から伝わっていたことに驚きました。しかもかなり漠然とした思いだったのに。今思えば、これは身体表現の一種の特性なのかなと思います。漠然としていても、身体を介して表現すれば、思いが相手に伝わる。このことについては、もう少し自分の中で考えてみたいと思います。

まとめ

 スポーツをする人は、無意識のうちに自分をさらけ出しているということ、身体を動かすからこそ実現する表現があるという二点をお伝えしました。上記は私の私見であり、何かそのような研究成果があるわけではありません。ですが、このような現象から、スポーツの可能性が浮き彫りになったと思います。それは、

スポーツは自分を最大限に表現するツールである

ということです。静かな人がスポーツでは熱くなる。フロアに入れば人が変わる。文章にはできない思いがスポーツでは表現できる。これらは、人がスポーツにはまってしまう一つの甘いささやきだと、私は表現したいと思います。そしてこの現象は、実践者のみならず、観戦者にも当てはまることではないでしょうか。

 スポーツをする人、見る人は、こんな現象がないか、改めて自分のスポーツ行為を振り返ってみてもいいかもしれません。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

もう一つ、スポーツの面白い可能性に気づいたので、近いうちに更新できればと思います。

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