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【なんでもない特別】「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容 千葉市美術館

千葉市美すごい…としか言えない研究と展示。良かった、すごく良かった。

これを写真美術館では「ない」ところがやった事に意義があるし、東京都写真美術館でやった「アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真」も良い予習になった。


あそこで、噛み砕けなかった部分(施設の広さの問題だと思う)を千葉市美に解釈してもらった感。
シュールレアリスム、ダダ、ネオダダ、の流れが一気に飲み込める。

【アジェから始まるスナップ的な何か】


1920年代だと写真が一般に浸透してまだ20〜30年ほど。
今でこそ、写真はスナップが基本というか日常的に誰でもシャッターを切れる。
だか当時カメラは特別な機械であり、それを駆使できる技術者しか扱えず、さらに現像という工程を経た後初めて目でみることが出来る「像」だった。

写真を撮るのも「特別」な行事で、何か人が集まった時、皆んなで並んで、カメラ目線で…と主に人間を写すことに注力されていた時代。
1910年代、大正期のお葬式にはもう遺影が飾られていたらしいので、そういう特別なものになりうるものを写すもの=写真だった時代。(考えてみたら遺影の歴史も写真の歴史に則るものだな)
記念撮影が主流だった時代。
コニカが写真学校(後の工芸大)を開設したのは1923年。
コニカの工場が武蔵野にできたのは1938年。
そんな写真が特別なことを「記録」するためのアイテムであった時代に「なんでもない風景」を写したりアジェ。
それはそれは日本人には大変衝撃だったはずだ。
そこから写真というものの芸術性を瀧口修造と阿部展也が語り作り、大辻清司へ。桑沢デザイン研究所を通し大辻清司から牛腸茂雄、高梨豊へ。

こちらは正に記念撮影

私の瀧口修造像


は「反芸術アンパン」による所が大きいのだけども、なぜ千円札裁判の弁護人に彼がいたのか、今更ものすごく納得する。
一環として「前衛」という言葉、行為が眼差しの芯、や基準点としてあったのだ。

アジェと大辻さんの写真と赤瀬川原平さん。
ひと続きではないか。
更に辿れば考現学の今和次郎へ繋がるだろう。共に、今そこにあるものをありのまま写したり、研究観察、採取として写真に取り組んだ人だ。
原平さんが「なんでもないもの」の写真を撮る頃に瀧口さんはもう居ないけれど、その写真芸術史の流れの大元に瀧口さんがいたことを知っていたのだろう。

牛腸茂雄


SELF AND ATHERSについては知っていたものの、プリントの現物を見たのは初。
驚いたのは桑沢時代の課題成果物だ。そう答えたのか、という驚き。図録によるとこれらの課題は石元泰博が講師だった時代から大辻氏に引き継がれている。
「なんでもない」を見つける目と四角に切り取る技術(構図)。写真家としての目とデザイナー的な構図の才を持った人だったのだろう。

建物全貌が分かりにくいがかなり展示数は多い。

高梨豊


ここを、掘り下げてくれた千葉市美に大感謝である。あまり今まで過去の作品をまとめてみる機会が無かったのだ。
清里フォトアートミュージアムへ行かないと見れないと思ってた。
原平さんとライカ同盟を結んでいた高梨豊さん。大辻さんの弟子だったのか…家元、と呼ばれていた所以がわかる。

工事中の新宿西口の風景の写真があった。ここも、以前見た石元泰博氏が撮った西口の風景写真が強く印象に残っている。
小田急百貨店の解体が始まり西口の風景は大きく変わろうとしている今。60年近く前、今の状態を作ろうとしている建設現場の方々の写真がグッと来るのだ。

【図録沼なので】


今回は図録を購入しました。

2970円也。

展示室内キャプションが非常に読み応えあるものだったが、図録の補足内容もまた、「おお!」と思う内容だった。
ここ、千葉市美を皮切りに、富山県美、新潟市美、松濤美術館へと巡回予定。
写真が好きで行ける範囲の方は是非とも見てほしい。

余談:しかしライカ同盟とは…


私は赤瀬川原平さんの熱烈なファンなのでどうしてもその視点やそこからの感想が外せないのだが…
高梨さんに秋山祐徳太子、赤瀬川原平さんのおじさんのライカ愛好写真家のんびり3人組じゃないぞ!
めっちゃパンクな3人だったのだ…
思えば20年前、池袋ジュンク堂で高梨豊さんと握手、サインを頂いたのはかけがえのない良い思い出だ。
「憧れの人に 会いに青い海を渡ろう」という理念の元、行動してた20歳の頃。アクションあるのみ!だったな。(海は渡ってないけど)

右が高梨豊さんのサイン。

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