【スルーしないこと】ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ
この企画が告知された時から展覧会は始まっていたのかも知れない。
国立西洋美術館が、現代美術を展示する。
長いこと、上野のあの場所にいる国立西洋美術館。
現代美術に関しては他館に任せてスルーして行く方針なのかと思っていた。
それが当たり前だと勝手に思い込んでいた。
恐らく私だけで無く世間一般的に「当たり前」と思われていたことを自らぶち壊しにきたのはなかなかパンクだな、と。いいぞもっとやれ、と思わなくもない。
固定概念を崩すこと
考えることやめないこと
答えは出ないけどスルーしないこと
今、大事だと思っていることをチャレンジしてくれたのならば、それはとても、まずは前向きだ。
印象に残った作家、作品
鷹野隆大
彼の写真はちょうど先日の関西遠征、国立国際美術館のコレクション展でみていたのだ。
性別がわからない後ろ向きのヌードの写真。
「身体」という展示テーマとあっていた。
絵画に描かれるヌード画をオマージュしたような、でもモノクロ大画面作品のインパクトは結構あった。
そしたら、である。
2週間後にクルッと表向きの写真を別の場所で見ることになるとは。
ちょっと自分の置かれた状況がおかしくて笑ってしまった。
そして写真を眺めるうちに、頭の片隅で「安心してください!!」という声が聞こえてくるのだ。
私だけだろうか。
そして西洋美術館所蔵品の代表みたいなのがIKEAの家具の上にあった。
こういうシチュエーション的な展示を見ると飾られる場所、も少なからず作品と呼応しているのだな、と感じる。
内藤礼
この人はどこまでいってもこのささやかさを守り続けるのだな。
豊島、直島、神奈川近代。そして「天下の」国立西洋美術館で展示されても内藤礼は内藤礼だった。ひそやかなのに、つよい。
となりにセザンヌが来ても、きっと草間彌生が展示されても彼女は彼女だ。
そんなことを思っていたら次回の展示先は東京国立博物館表慶館というではないか。
彼女もまた(横尾忠則氏と)別のベクトルをもって、場を飛び越える人なのだろう。
上野公園の路上生活者についての作品
このことについてを西洋美術館の学芸員の方が触れること、がなにかの前進になるのだろうか。
一個人の記録、というものはどうしても読み進めてしまう。日記のよう壁面に散らばった文字につい引き込まれてしまう。
人が生きて生活があって。当たり前だけど当たり前ではない世界、自分がまだ通ってない世界がすぐそこにある。
展示室について
常設展示室での展示だったらどうなったのだろう。
展覧会は地下の企画展示室での展示だった。
建設当初からある本館での展示だったらどうなのだろう、とふと思った。
地下企画展示室は、言ってしまうと建物の印象がまるでない。
無味無臭感。
例えば20年後、沢山の展覧会を思い出す時、国立西洋美術館で見たのか、東京都美術館で見たのか正確に思い出し判別できる自信がない。
チャレンジングだけど、さらにあと一歩、次の挑戦を期待している。
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