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日本人の死生観 2

日本人にとって死生観に強く影響を及ぼすのは神道と仏教であろう。ですからこの二つのものを解説しながら死生観というものについて改めて考えていきたい。

神道では、身体は魂の宿る単なる肉体で、魂は永遠にこの世に留まり生き続けるとされます。
国、郷土、家庭、それぞれの場所で守り神となり、生者とともに生き続けるのです。この生命感は明治以降国家神道として多くの若者を死に追いやった経緯があり、批判の対象にもなったが現在は個人の信仰の問題であり正しい歴史認識があれば問題とはならないだろう。

仏教における輪廻転生もある意味では魂の永遠をあらわすが、最終目標は六道から解脱して浄土に生まれ変わることで死後の再生が完了されるとします。
仏教では今生を苦と捉えます。
仏教の生まれた古代インドでの下層の身分に沈む庶民の苦を救済するため釈迦が唱えたことに本質があるからです。

日本における神道の根本は伊勢神宮です。
そこは天照大神の怒りを鎮めるための霊屋があり、太宰府の天満宮は暗殺され怨霊化したといわれる菅原道真公の魂を天神として鎮めるために建てられました。
不慮の死でこの世を去った魂の怒りを鎮めるために建てられ、怨霊は祀られることで守り神へと変わります。

神道は、日本の自然と生活の中で祈りを捧げることから始まった宗教です。ですから仏教のような高邁な哲学や教義がありません。大雨が降れば神の怒りだ、疫病が流行れば怨霊の祟りだと信じられていました。

「魂は生きている人と同じようにこの世で生き続けるため、時には人間に悪さを及ぼす。ならば手厚く祀ることで守護神となってもらおう」との考えが神道の本質なのでしょう。

また、古代日本では氏族一族の連帯感が同一の祖先を敬い、祖先の御霊を氏族の神(氏神)として家や地域で祀るようになりました。

現在では、死後、御霊に新たな霊璽(仏教での位牌)に移っもらい祈りの対象とすることが一般化している。

仏教では亡くなった故人は輪廻転生して生まれ変わるのか。

我々がいる世界は仏教で言うところの六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の中の人間道です。

悟りの境地である浄土世界に転生するには、現世で功徳を積み、この六道から解脱しなくてはなりません。解脱しない限り転生を繰り返すのが仏教の死生観です。
仏教はこの輪廻転生・六道から解脱する方法を説きますが死後の世界を決定する今生での在り方も問題となる故、努力して生きる自覚が、結果個人の魂の救済となります。

宗教には儀式がつきものです。その代表が葬儀ですが、神道における葬儀とは、故人が祖霊に加わり氏神となるための区切りの儀式です。

一方、仏教での葬儀とは故人がこの世での道徳的宗教的修行を終えたことを意味します。
そして故人が浄土に生まれ変わる、もしくは長い旅路になるであろう次の世に無事たどり着けるよう送り出すのが葬儀なのです。
そして家族が報恩のため手厚い追善供養で故人の冥福を祈ります。

それぞれにおける葬儀とは、神道は御霊を守り神として家に招き入れるため、かつ、故人の新たなる始まりの儀式「祭」であり、仏教はこの世での生の終わりを締め括る儀式である。
祭主や施主がそれを執り行うことにより亡き人を偲び、又自身の生きるよすがとするが、それが社会的風習として継続されていくのだ。

現在、この風習が単なる形式とか葬式仏教と揶揄され廃れていくことが最期を迎えての不安につながる一因なのであろう。
何故ならば、縄文、弥生の古代より神道で人が亡くなるのは、魂が御霊となり氏神となるということですから、残された家族、子孫が未来永劫見守られているという安心感の喪失につながるからである。

姿形は見えなくともいつも家族のそばにいる、あの世から見守っている。これが神道、仏教の死生観なのです。
現代では死ねば無に帰すとか、この世の生は一回限りとか唯々唯物的な死生観を多くの日本人が抱いているのでしょう。

これで死というものが納得できるのでしょうか。はなはだ疑問です。
現代人が納得できる死生観がきっとあるはずです。それは哲学の目的であり文化の継承でもあるのです。然し哲学は死とは何かの回答を与えてくれますが安心を与えてはくれません。そこに宗教やスプリチュアルな何かが必要なのでしょう。


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