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小泉八雲の生涯ー4

日本時代

1,アニミズム

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがなぜ日本に向かったのかをその幼年期からおこし、そしてアメリカでジャーナリストとして文芸者として一応の成功をおさめたハーンがなぜ日本行きを選択したのかを前章では書いてきました。しかしこれだけでは、彼の日本理解や日本で書かれたものの理解は完全ではないでしょう。そこで、この章では彼の文化観とか宗教観に深く触れてみたいと思う。

ヨーロッパでは、キリスト教伝来以前、古代ケルト語を話すケルト人の間ではドルイド教と呼ばれた土着信仰が信じられていた。

この様な信仰は、自然相手の採集、栽培、狩猟が食料調達の主要な手段であった時代には、必然的に多神教的形態になる。

穏やかな気候と豊かな土地が、豊穣の前提となることから、太陽神と土地・豊作の神が崇められる。これは日本に於いての、伊勢神宮信仰と軌を一つにするものである。

「自然は霊的な力を持つ」というアニミズム的(汎神論的)な見方は、部分では生まれ変わり、死に変わりしながらも、全体は不変な世界に介在する力として精霊や妖精または妖怪を実在化させてゆく。

ケルトでは妖精を、日本では怨霊、妖怪が活躍する世界が伝承されていったのである。

ドルイド教ではドルイドとよばれた神官を中心に、占いや天文の知識、聖樹崇拝を重視し、輪廻転生、霊魂不滅を説いていたが絶対一神教のキリスト教により弾圧され姿を消してしまった。

アイルランドだけは例外で、聖パトリックが融和的布教を取った為、現在もドルイド教に根差したケルトの文化がこの地にだけ残ったのである。アイルランドのこの様な新興宗教と土着的宗教の融合は日本に於いても同じような経過を辿っている。

聖パトリックが布教を始めた五世紀、五三八年、日本に伝わった大乗仏教を、当時の最も革新的思想として国造りの根幹にしようとした聖徳太子は蘇我氏と連合し、神道を守ろうとした守旧派の物部氏と対立し勝利した。

太子は、その混乱の反省に立ち十七条の憲法を発布し両者の融和に努めたが、以後の日本は新年には神社に詣でた後、寺にも参拝するといった極めて日本的な宗教感覚が定着したのである。

今日まで続くアイルランドや日本に残る習慣や文化は、多神教の価値を知る人々の優れた智恵のおかげである。

聖徳太子や聖パトリックは、この意味において今も両国で尊敬され続けている。また私達が知るハロウインやロビンフット、ハリーポッターもケルトの世界から来たものである。

2,ハーンの幼少年期と思想形成                       私は自分の著書の中で宗教文化が大変似通うケルト文明の概要と縄文文化との類似点を多々述べてきたが、この二つの文明は、メビウスの輪である。表裏一体、エンドレスな出口の見えない迷宮に誘いこまれたかの様な気分になるほど似ているのである。日本文化は縄文が基層となり弥生と混交しながら今日の日本社会の根底に根強くいきているのです。

ではケルト人の末裔パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生まれ育った状況と時代背景はどうであろうか。

ケルト的素養持つ彼が、極めて日本的と思われる民話や説話を作品化したのは、どの様な思想からなのか見ていきたい。1850年アイルランド出身のイギリス軍医の父とギリシャ人の母との間に父親の赴任地ギリシャのレフカダ島で生まれた。彼のファーストネームは聖パトリックに由来する。

彼は子供時代キリスト教の神や精霊に怖い思いをした体験と後見人でカソリックの熱心な信仰を持つ大叔母の厳格な躾により、キリスト教そのものに疑問を持ち、大叔母からもキリスト教の教義からも心が離れ、ケルトのドルイド教に惹かれて行った。

二歳で母と共に父の故郷アイルランドのダブリンに移ったが、母親は幼児の彼を残しギリシャに帰国し、やがて離婚してしまった。異郷の文化に馴染めず、留守勝ちで愛情薄いハーンの父親との関係に疲れて、精神を病んでの帰国であったという。以後彼は、大叔母サラ・ブレナンに引き取られ幼児期少年期を過ごすのである。

両親の愛情を殆ど感ぜずに幼年期を育った彼は、この頃から内面の世界へ関心が向かっていった。十七歳で大叔母の破算に出会い、経済的援助も絶たれた為、学校を辞め苦難の生活が始まったのである。その前年に学校での遊戯中事故により、左目を失明したことも生涯彼のハンディとなり、劣等感となった。父親はスエズで既に死亡しており彼は一文無しとなり、産業革命が始まった大都市ロンドンで自活しなければならない状況に、追い込まれたのである。

産業革命は、都市化つまり人口の都市への集中をもたらしたことで、さまざまな弊害を生み出していた。工場から吐き出される煤煙や廃棄物による公害問題、衛生環境の悪化、犯罪の増大、失業、生活困窮者の増加、これらは産業革命の光のとどかない影の部分であった。

当時世界の最強国を誇ったイギリスの中心都市ロンドンの状況はこのようであり、労働者保護を目的にした工場法が、制定されたとはいえ、若年労働者のハーンは劣悪な労働を強いられていた。

ハーンは人間としての当たり前の幸せを奪う近代文明とは何なのであろうかと、深く想う様になった。この思索こそ彼の人生を決定する思想の原点となった。少し詳しく述べてみよう。

異なる二つのものが一つとなって存在するのがこの世界である。昼と夜、夏と冬、光と闇、男と女、人間と動物、こうした相反する二つの存在が、森羅万象の背後にひしめく霊的な力に依ってバランスを保っている。

このバランスとは調和である。調和こそ自然本来の姿であり、その調和を乱す人間のエゴが、環境破壊という形で突出して来ると、ここに住む動物の生存を脅かす。

しかし動物の住めない環境には人もまた、住むことは出来ないのです。この自然の摂理を深く理解する事が、人間である事のアイデンティティに他ならない。

近代資本主義は、この自然の持つ摂理、即ち、霊的な力を後進性、迷信として退ける事によって発展して来たが、これこそが自然の統一力であり、宗教的に神と呼ばれるものである。 

目に見えるものだけを価値づけする対価として、近代の自己喪失が始まったとハーンは考えたのである。

ケルトでは、すべての在り様は、固定されたものではなく常にダイナミックな動的な関係の中で決まると考えてきた。例えば「生と死」の問題である。彼等はこの様に答えるだろう。「死は消えて無くなる事ではなく(生滅)、何かに成りつつあること(生成)で生から死、死から生、その変化のダイナミズムこそが命の本質である」と。

これがケルト人の霊魂不滅の考え方でありハーンの生命観の根本であった。本来は、自然(神)と一体で在るべき自己の関係が近代化という大義に否定され(その傲慢さの故に)、その距離がどん々遠ざかってしまったのである。ハーンは新天地アメリカへ向かう決心をした。その時、彼は十九歳であった。しかし、40歳にしてまたもその夢が破れ仏の国、神秘の国日本に向かったのである。



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