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悩みは知識で解決できるか

何故に我々の自己は、その根柢において宗教的であり、自己自身の底に深く反省するに従い、即ち自覚するに従って、宗教的要求というものが現れ、宗教的問題に苦まねばならないのかであるが、それは、我々の自己が、絶対に自己矛盾的存在なるが故である。
絶対的自己矛盾そのことが、自己の存在理由なるが故である。

自分自身の奥底に、徹底的に矛盾した自分のあり方や腐りきって本当に救いようのない自分の愚かなあり方を見つめたとき、宗教の世界が現れてくるといいます。
「多くの人は深くこの事実を見詰めていない」と哲学者であり禅者である西田幾多郎は言い切ります。
換言すれば「道徳の極地は道徳そのものを否定するにある」ということです。
道徳の立場を徹底し、自分の力によっては決して善人になることができないことを何百回も何千回も突きつけられ、道徳の極地に至って道徳そのものの否定を知ることとなるのです。
自己の力を基礎とする「道徳」の立場と、自己を棄て去る「宗教-禅」の立場の違いについて述べましたが、
夏目漱石も、不安の人でした。
彼はその小説、門の主人公宗助を語りながら迫りくる不安におののき、その解決を禅に求めました。
しかし、禅の実践たるや不安の解消どころか更なる不安を煽り立てる結果となりました。

彼は禅僧から父母未生以前本来の面目の公案、すなわち問題を与えられその見解を求められます。およそ禅を志す者は、始めの関門,初関といいますが、この初関が解けなければ次には進めません。

当然ながら宗助は成す術もなく寺を去ります。
この問題提起は、自分が此処にあるのは父母の和合としての因縁である。では、父母も生れていない以前、自分とはなに、誰なのか。

私というものは、他者との関係で有る者である。

「私は」という言葉は、ここにいる自分を指していると同時に向かいにいる貴方であり、彼方にいる彼らであり彼女らである。さらには、世界各地で会うことのない無数の誰かや、いまだ誕生していない人さえも指している。

このことが理解されると真の意味で私というものが成立するのだ。私はこの私だけであるが、誰でも私であるという同期性や一体性自己の覚醒なのだ。

表現を変えれば、本来は何も無い自分であるが、背後には大いなる生命の流れが有ることを知るのが大意です。

有ると無しの差別、有無の二元対立が人間の不安の根源であり煩悩なのだ。「有無を言わず」という日本語は、ここが出所なのだ。

禅の指導者は修行者に「有無を言ず直ちに煩悩を断て」と迫るのだ。
 私自身若き日、父親の死に際し自分の実存に悩んだ。宗助と同じ鎌倉の円覚寺に座った。私自身もこの公案が解けず結果仕事をやめ静岡に帰り自営業の世界に転身した。

その後自営業の傍ら、京都に何度か通いという体験と知としての哲学の一致を試みやがて近代禅と知の一致を目指すFAS協会の一員となった。
そうこうして居るうちに私は禅というものの最低限の理解を得てきました。

禅は人間の心の追求です。単にいえば、哲学もそうでしょう。
大きな違いは禅は直観であり哲学は知識であるということです。

禅は知識を遠ざけます。知識以前の直観を大事とします。

自己の実存に悩む人は哲学書を読みます。生きるという基本である人生に悩み、自分の考えやマインドを変えたい、成功したいと思って勉強しますが、禅は考えを放棄し座るというところに発展があります。

最初は心を集中させ哲学の様に言語で突破を試みますが禅では所詮そこを突破できません。
心というものを言葉で分析し抽象化定義化するのが哲学ですが、禅は分析ではなく集中です。

日常性の中では考えもなくやり過ごしていた当たり前のことを疑いぬいていきます。
当たり前ではないことが自己の前に現れてきます。ですから世間一般言われる禅というものが問題にするのは、決して訳の分からないことや、自分の縁のないことではなくて、極めて身近なことの問題提起なのです。

例えば直角三角形の定理です。内角の和は180度、この定理を、私達には見ることが出来ないが、そうであることを私たちは直感で理解します。この直感の理解が禅の悟りと共通します。

自然現象の背後に数学的な法則が内在していることに気がつき、万物の根源として、初めて数学という「観念的な存在」の気づきがあるのです。
見えないものは「有る無し」的には無いのです。

何故定理や法則が存在すると分かるのだろうか。それは個別的に存在するものの動きや変化によって、あるいはそれを通して現れるからである。

つまり法則は個別的具体的な諸々の現象を通して現れるもので、そうであるならば、定理法則は存在しながら存在しないという矛盾的なものといえるのです。

私の肉体が存在する、有ると自覚できるのは、自分がその空間に維持されているということです。そのことは時間的に持続し、空間的に一つの場を占めることを意味します。

ところが法則は時間的空間的な場を占める諸々の存在するものを通して自らを現わすが、それ自身は空間的にも時間的にも限定されない。つまり法則は空間のある一点を占めることはないし、時間的な持続性ももたないのです。

自然法則は 宇宙のあらゆる所で作用する。ということは、法則は空間的に限定されていないことを意味します。

また時間的持続性を持たない。それ故に法則は時間と空間のように、存在するものを包み込むが、それ自身が存在するとは言えないのです。

時間と空間が存在するものの可能性を与えるように、法則も同様に存在するものに存在する 可能性を与える。

つまり存在するものは法則に従って存在するのである。
だから法則それ自身は存在するのではなくて、存在するものに、それらが存在することの可能性を与えるのです。

禅ではこれらを無が有を包み込む、無だからこそ有と表現し、包むものと包まれるものが一体だからこの世界があるとするのです。

このように物の有り様をみれば、矛盾的同一的で、片方だけ見て全体を知ることが出来ないのです。

禅では「有無同然」の自覚を悟りとするのです。相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまい、対立矛盾の迷い・苦しみを残すのです。
西洋の基本的認識、弁証法はこのような問題を完全には解決できないのだろうと私的には考えます。

ここに一枚の紙があります。
この紙には、表と裏があっての紙である。
一方だけの肯定でも否定でも紙は成立しない。
有る無い、表裏の両極を排した相互依存関係を観ずることが執着を離れた空で、禅の目的となるのです。  
有でもなく無でもない、有即無、この直感的な気づきが禅なのです。


禅は中国で生まれ日本で完成した仏教の一派です。
あの手足のない赤い達磨像で有名な達磨大師が仏教の母なる国インドから中国へもたらしたのです。

彼は中国に到着後少林山に籠り座禅に明け暮れました。そして中国僧慧可が最初の弟子となりました。

ある日彼は師匠である達磨に次の言葉を投げかけました。「不安」という言葉です。

人間だれしも不安の無い者はおりません。生きるというのは形有る不安、そして無になる死への不安です。
慧可は達磨に尋ねます。
「お師匠さん。私は毎日が不安でなりません。どうか私に安心を与えて下さい。
達磨は答えました。
 「心を探してこい。そうすればお前に安心を与えよう」
慧可は必死に考えました。
数日考え抜いた後、達磨の前に再びやってきました。
「お師匠様、私は一心に、心というものを探しましたが、そんなものはどこにもありませんでした。」
達磨は弟子の見解を聞いて大いに喜びました。
「そうか、探してもなかったか。それを聞いて私は安心をした。私はお前に安心を与えた」・・心をもち来たれ、汝が為に安んぜん
私はこの問答を聞いた瞬間、相対二元のもたらす人間の不安というものを始めて超えたと感じました。

(この記事は以前公表したものです。ここに触れた数学的実在は本当に実在するのかを考えている途中で問題提起の動機として再度アップをしたものです。
ニュートンの運動方程式は、最初の状態と状態の時間発展を記述する法則さえ得られれば、未来永劫あらゆる状態が予測できるという考えです、

地震も天気予報も絶対的予報はありません。この世界観の下では、複雑な事象の未来が完全予測できないからです。
これらの事象が複雑すぎて今の物理学では解き明かせないという理由もありますが、将来その式さえ解明されれば必ず予測可能になるのかといえば、そうならないのだそうです。それがカオス論です。

 カオスの最も大きな特徴は、最初の状態がほんの少し違うだけで、将来非常に大きな違いを生む」というもので、わずかな誤差がやがて想像もつかないような大きな差になってしまい、混沌とした状態が生まれるからです。こんな記事をネットで目にしてからその発展形を考えてみようとした動機が「悩みは知識で解決するのか」再構の理由ですが、はたしてどうであろうか。)

 

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