見出し画像

神、仏と自然 その2

自然哲学
自然哲学は、自然を総合的・統一的に解釈・説明する哲学の分野です。
自然界に普遍的な法則が存在します。その自然現象を観察して規則性を発見し、理性を用いて推論を行い、実証することで矛盾のない理論体系を築いていくのが自然科学です。

自然哲学の分野
1,自然主義
:神などの自然を超えたものの存在を否定したり、哲学的な探究を科学と密接に結びつけようとしたりする立場です。存在論的自然主義と方法論的自然主義に分類されます。

2,シェリングの自然哲学:精神と自然との同一性を追究しようとした哲学。現代においても多くの示唆を与える。

3,機械論的自然観:心身二元論に基づいて精神と身体を分離し、身体や外界の一切を数量的に規定できると考えたデカルトや、万有引力の法則に基づいて一切の自然現象を説明するニュートンなどの理論。

哲学は古代ギリシャで自然の原理的探究として誕生しました。
ソクラテスは古代ギリシャの哲学者で、「西洋哲学の父」とも称されるほど、哲学の歴史に大きな影響を与えました。

自然哲学の研究者の多くは宗教を信じる人が多かった。
世界は「自然という書物」であり、神のメッセージだと考えていたからである。
ヨーロッパでは近代まで、ほとんど全ての自然科学思想家はキリスト教を信じ実践しており、神学的真実と科学的真実の間の相互連結に疑いはなかった。ルネッサンス後デカルトらによって近代科学的方法が確立されると、哲学的諸問題に対する自然哲学の重要性はさらに増した。

シュリングの自然哲学・絶対者
絶対者の主観と客観は同一である。
自我は非我を超越したものであり、我・非我、精神、自然、客観などは同一もしくは、無差別である。
万物は絶対者の現れであり、絶対者のもつ同一性は万物いたるところによって見られる。精神と自然は絶対者の啓示の二つの契機あるいは様式にすぎないのだから、精神と自然は実在的な対立を構成するものではない。従って程度の違いはあるが、あらゆる現象のうちに表現されている。
シェリングは、絶対者を最終的な実在の根源として理解し、これを理解することを哲学の最終的な目標と見なしました。絶対者は、限定されていない全存在の根源であり、全ての対立を超えた存在です。

「宇宙の何かである一つの直観が自由気ままに宗教的啓示として人間に働きかける。それを根本直観として受け入れ宗教がせいりつする。この様に直観を根本とした宗教を理性宗教と呼んでよいのだろう。近世の哲学と結びついた宗教は概ねそのような形態をとるのだ。
私たちの世界認識は、感性的・理論的・審美的・道徳的な多様な領域である。そこから人間としての精神生活が導かれる。かかる生活を正しく方向づける自然からの啓示とも呼べるものが根本照準と呼ぶ。その根本に照らし現実的に導くものが価値判断力なのだ。これによって人間は複雑困難な人生にありながら「正しい道をわすれない・ゲーテ」のである。
言葉を変えれば、正しい道とは、価値判断から秩序を明らめ、自分こそ究極存在即ち大自然の想像力生産力と一体をなすとの信念を持つことだ。そして誠実に勤労することが真の生活価値実現となる。
ここに信仰と倫理(理性)、宗教と道徳が一体となる。

時代の宗教
禅を少し知る者には次の言葉は理解できるだろう。
このコラムで書いてきたことを禅の知恵として表したものだ。
天地と我と同根、万物と我と一体
自分という一個の存在とこの広い大宇宙と根源は同じであり、従ってこの世界の中のあらゆる存在と自分は一つのものであるということを示します。

この世界のあらゆる存在と自分とは根源が同じ、という考えはキリスト教にもある。この世界は神が造られたものであるから、その中に存在するものは、例外なく神に根拠を持ち、したがって神の摂理によって動いているという考え方ですがキリスト教と仏教では少し違いがある。
キリスト教の神は被造物としての世界に断絶があるが、仏教の考えは一元的である。
「天地と我は同根」の句は、自然と人の関係性を説き宗教哲学的表現である。
「万物と我と一体」は現実世界の道徳性を暗示させるという。
今日私たちが求める宗教とは格のごとくで今日の実生活に根差した道徳と結びつかねばならない。
同時に理性の時代に離反しない科学や哲学、況や近代文明全体に整合するものでなければならない。
キリスト教の神や仏教の阿弥陀仏は宗教的に信仰の対象であり、哲学的には人間を超越した存在である。その意味でそれらは、絶対存在・究極実在と歴史的にも呼ばれ続けたものである。ですからこの論で取り上げてきた意味においてそれらを大自然と呼んでもよいだろう。

同じキリスト教でも、スピノザなどの「汎神論」になると、この世界は神から流出したものであるから、神と深く繋がっていると説く。したがって世界のあらゆる存在には、多かれ少なかれ神性が宿っていることになる。
言葉を換えて言うならば、この世界のすべての存在は、一つの宇宙的生命とも言うべきものによって貫かれているという考えである。そういう考えは信仰の篤かった中世の人々の心を支配し、彼らは人間とあらゆる存在との間の深い連帯感を持って生きていたのである。

今を生きる私たちにとって大事なことは宗教の本質に目覚めることである。実在たる大自然と深く融合しそこからの啓示というか顕示される魂の秩序や人道を自覚しそれと一体になって働くことである。であれば、自ずと人間として生きる道が示されるはずである。そこに哲学的思索がないにしても自らの行為は認識や体験を通し自得されるであろう。
キリスト教では、このことを「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主たるあなたの神を愛せよ、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ」と聖書で語る。

いくら汝の神を愛せと言われても悲嘆にくれる不幸も大災害もやってこよう。しかしその不幸に打ち勝つ知恵を自然は人間に授けた。甘いことばかりの自然ではない、厳しくとも愛も持ち人間の能力を進歩させ、何時かは来る終末を心安らけく迎えさせてくれるだろう。

その3へ


いいなと思ったら応援しよう!