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小泉八雲の想像力

小泉八雲は、静岡県焼津縁りの文豪である。
そんな彼の世間ではあまり知られていない面を紹介してみよう。

 彼は夢をよく見、内容も良く記憶していた。
 東大英文学部の講師も務め、学生に、「もし諸君が優れた想像力を持っていたなら、霊感を得るために書物に頼ることは止めた方がよい。

それよりも、自分自身の夢の生活に頼るのだ。それを注意深く研究し、そこから霊感を引き出すのだ。単なる日常の体験を越えたものを扱う文学において、ほとんどすべての美しいものの最大の源泉は夢なのだから」と語っている。

八雲の目指す文学とは、人間の問題や人間関係の根源を突き詰めて探究するものである。それは、日常を越えた世界の認識を問うことであり、人間への深い洞察力や優れた想像力が要求される。

優れた想像力あっての霊感なのか、霊感が想像力を呼び起こすのか、この表現ではよく分からないが、彼のいう霊感とは何なのであろうか。
 
八雲が外国人で初めて昇殿を許された出雲大社での体験は、何故神道が他の宗教のように、教理や経典を持たないのかを知る上で重要な出来事であった。

神道は何も持たない故に、正規の学問を修めた西洋人学者には、その理解が難しい。小泉八雲は、日本人の宗教観を知る事が、日本理解に欠かせないとの信念があり、自ら民衆の中に入り直接、「眼」「耳」で感じ取ろうとした。
 神道は、祭祀や儀礼を重視する。禅が不立文字を標榜し知識を退け、体験で神髄を相伝するのと似ている。このような「体験で伝える神髄」を体得する感性が、霊感なのである。
 
平安時代の歌人、西行法師は、伊勢神宮へ参拝に訪れた際その神々しさに打たれ

「なにごとのおわしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠んでいる。お伊勢さんに参詣したことのある日本人であれば、直ちに理解出来る心情である。
 日本人の自然観や本質を、神道の核心と看做したこの和歌は、あらゆる宗教の根底をなす「統一的あるもの」を言い当て、そのかたじけない存在に胸が一杯となり涙がとめどもなく流れてしまったという宗教心の発露を霊感として捉えたことを表している。           
 
 この宗教心とは「親から子へ」「子から孫へ」と、世代を越え祖先たちへの祈りの中から「民族の魂」を感ずることである。
 この民族の魂こそが、祖先信仰への宗教的感情である。

日本人の死者に対する感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。現世を超越した感情、個人的存在を超えた深い感情、今抱く記憶の彼方に続く過去の時間と場所の感覚を呼び起こすことによって、死者は決して死に絶えることはなく、今を生きる人間の心の中で眠っているのである。
 
 このような忘れ去られた死者の過去を呼び起こすものこそ、日本人の宗教であり、日本的霊性の事実である。八雲の目指した作品は単に伝承された話でなく、死者に対する尊敬と愛情の表現に主眼が置かれ、それ故に再話文学と尊称されるようになった。

その様な観点から書かれた『水飴を買う女』は、一読に値する作品となっている。

『毎夜遅く水飴を買いに来る女いる。幽鬼漂う女を不審に思い、飴屋が後をつけてみるとある墓の前で姿を消した。墓の下から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので、その墓を開けてみると、毎晩水飴を買いに来ていた女の亡骸が横たわっており、傍らに元気な赤ん坊がいた。赤ん坊のそばには水飴の入った椀があった。女は、自分が亡くなってから墓の中で生まれた子供を水飴で育てていたのである』

この話が単に薄気味悪い怪奇譚に終わっていないのは

「死してなお子への愛を貫く母親への尊敬」の念で溢れているからである。八雲はこの話を「母の愛は死よりも強い」と結んでいる。

この作品で暗に説く母性とは、素朴で尊いもの、本来神性に属する人間社会の根本を成すものである。

八雲には、父親に捨てられ、母に去られたという幼い日々の苦い記憶がある。彼の心情は終生、父親への憎しみと母への慕情が混じりあった複雑なものがあった。その複雑な感情が、亡き母を蘇生し、作品の中でオーバーラップさせたのであろう。
 
 このような、母の愛に繋がる人間の普遍的ともいえる母性への憧れは、霊性の事実として、頭ではなく、体全体で感じ取られるものである。小泉八雲は、このような霊性に繋がるものへの感受性が大変優れた人である。

そこから霊感に導かれ想像力を駆使し、書き上げたのが名作『怪談』である。
 霊感を磨き、日本的霊性に導かれてのファンタジー、イン、ジャパンを世界に紹介したのだった。


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