閑話:田中の恋

 新入社員研修を終え、配属先で僕は向田さんと出会った。
 向田さんはボクの教育係だった。
 一目見て、彼女のことを可愛いと思った。
 でも彼女は可愛いだけじゃなかった。
 面倒見がよくて、優しくて、僕の失敗を自分の失敗のように捉えることができる人だった。
 僕はそんな向田さんにどんどん惹かれ始めた。

 自分で言うのもなんだが、僕は学生時代から結構モテた。
 僕がいいなと思った人は大概僕のことも好きになってくれた。
 だから向田さんもそんな風に思ってくれるのかなと期待していた。
 でも違った。
 僕に接する向田さんは、僕に対して恋愛感情なんて抱いていない。
 純粋に後輩を育てようと奮闘していた。

 自分が少し恥ずかしくなった。
 うぬぼれているなと思った。
 同時に社会人の素晴らしさを知った。
 僕は向田さんに対し、尊敬の念の方が強くなった。
 向田さんのようになりたいと思って、一生懸命仕事に励むようになった。


 でも僕が向田さんに対して抱いた感情は、やっぱりそれだけじゃなかった。
「ひざ枕ポンポン券」という物を見たとき、心に重りがのしかかるような気がした。
 彼女には好きな人がいるのだろうか?
 付き合っている特定の男性がいるのだろうか?
 焦りが僕の心の中を駆け巡る。
 考えれば考えるほど落ち着かなくなった。
 膨らむ疑念を抑えることができず、ボクは暴走した。

 飲み会のとき、僕は初めて彼女にアプローチしてみた。
 今まで何度も女性にアプローチしたことはあるけれど、これほど余裕がないのは初めてだった。
 自分で何を言っているかも分からなかった。
 なぜなら、今まで自分に対し好意を抱いてくれている女性しか相手にしてこなかったから。
 もちろんダメだった。
 冗談と押し通すのが精一杯だった。

 手に入らない物が目の前にあると、さらにと欲求は強くなる。
 叫びたい衝動に駆られるように。

 向田さんの彼氏と思われる男を見た時は、悔しさで一杯になった。
 どうしても受け入れられなかった。
 諦めきれなかった。
 どうして隣にいるのは僕ではないのだと。


 僕はなりふり構っていられなかった。
 なんとしてでも向田さんと関係を深めたいと思った。
 そして向田さんの逆鱗に触れてしまった。

 向田さんの目はいつも誠実そうな目で僕を見てくる。
 それは僕だけじゃない。
 誰に対しても、分け隔てなく。

 でも僕を見る向田さんの目はこれまでと明らかに違った。
 誠実とは真逆の軽蔑の眼差し。
 怒りや悲しみよりならまだ耐えられたのかもしれない。
 でもそれを優に超える感情が僕に向けられていたのだ。
 だからこそ我に返った。
 僕はなんてことをしてしまったんだと。
 後悔という2文字が重くのしかかった。


 謝りたい。
 許してほしい。
 それなのになかなか言葉が出てこなかった。
 踵を返し、目の前から消えようとする向田さんを見てようやく絞り出すことができた。
 謝罪という気持ちよりも「後悔」や「恐怖」という感情の方が強かった。
 でもそれがボクの本心であって、心の叫びだった。

 当然許してもらえなかった。
 僕のことは好きじゃないとはっきりと言われた。
 でも顔を上げて彼女の目を見たとき、いつもの誠実な目に戻っていた。
 彼女は許さないと言ったけれど、僕は許された気がした。
 その目を向けてくれるだけで十分だった。

 僕の恋は終わった。
 向田さんから拒絶されるという形で。
 僕はこの想いをひっそりと心の中にしまっておこうと思う。
 そして二度と彼女を悲しませないに。
 向田さん、彼氏と幸せになってください。

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