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イデオロギーは何の処方箋にもならない

[要旨]

冨山和彦さんによれば、かつての日本では、経済全体としては資本主義であるものの、会社の中では社会主義的な仕組みで動いましたが、これは、労働集約型、設備集約型の産業構造だったからだということです。しかし、その後、産業構造が変わっているにもかかわらず、カイシャ資本主義、サラリーマン共和制だけを一生懸命維持しようとしてきた会社では、ミスマッチが起きており、従業員の方たちも、産業構造に合わせた能力を身に付けなければならなくなってきているということです。

[本文]

今回も、前回に引き続き、冨山和彦さんのご著書、「結果を出すリーダーはみな非情である」を読んで、私が気づいたことについて説明したいと思います。前回は、冨山さんによれば、人的資本が競争上の勝ち負けを決めるような産業構造になっていくと、個人の能力の高低が収入の差につながっていく、すなわち、知識集約型産業では、同じ会社で働いている人でも、個人能力によって、年収には大きな開きが出てしまいますが、突出した人を大事にしないと、会社全体も競争相手にやられてしまうということについて説明しました。

これに続いて、冨山さんは、かつての日本の会社は社会主義的であり、それがうまく機能していたものの、現在はそのままではミスマッチが起きているということを述べておられます。「日本が戦後につくり上げた“カイシャ資本主義”の仕組みは、ある意味で非常によくできていて、50~60年にわたって有効に機能し、サラリーマン共和制の社会を形成していった。結果、日本では、経済全体としては資本主義だが、会社の中では社会主義的な仕組みで成り立っている。年功序列でポストが上がり、カイシャ内の序列によって役員会の席順もオフィスで自分が座る位置も決まっている。

また、初任給と社長の給料の差はせいぜい10倍から15倍程度と、大して大きくない。それら社内体制は非常に社会主義的で、旧ソ連や少し前までの中国共産党と変わらない。企業と企業は自由競争をしているが、カイシャの中では社会主義という、資本主義と社会主義を弁証法的にアウフヘーベン(止揚)した仕組みができ上っている。これがうまく機能していたのは、労働集約型、設備集約型の産業構造によって日本経済が成り立っていたからだ。

自動車や電機など、大量生産型の組立産業には非常にフィットした仕組みだったのである。だが、そうした大量生産型組立産業は、日本の主力産業ではなくなった。あるいは、日本国内に残る主たる生産形態ではなくなった。これは今に始まったことではなく、すでに20年ほど前からそうなってきていた。だが、カイシャ資本主義、サラリーマン共和制だけを一生懸命維持しようとするものだから、いろいろなところでミスマッチが起きてしまっていた。

産業構造の転換は、技術革新などによって必然的におこるもので、その流れは止められない。その変化を見据え、いかに生き残るかを考えることに集中すべきである。江戸時代から明治時代への転換は、産業構造的に見れば、米本位体制の農業社会から、産業革命がもたらした工業化社会への転換期でもあった。そうした転換期に国の構造をどのように変えるのか、また、社会の持続性をいかに保つかを考える際に、イデオロギーは何の処方箋にもならない」(71ページ)

冨山さんの、「カイシャ資本主義、サラリーマン共和制だけを一生懸命維持しようとするものだから、いろいろなところでミスマッチが起きてしまっていた」というご指摘は、受け入れたくないと思う人も少なくないと思いますが、反論することは難しいものだと思います。そして、経営環境は変わっているのに、雇用制度は従来のままを維持しようとすることで、ますます会社が弱体化し、従業員の雇用そのものが危なくなってしまうという皮肉な結果になった会社も少なくありません。

そうであれば、従業員の方たちも、自らの安定した雇用維持に資する選択をするべきなのですが、それは現実にはなかなか難しく、痛し痒しなのだと思います。ところで、日本では、「企業内容等の開示に関する内閣府令」などの改正により、人的資本の情報開示が2023年3月決算以降から義務化されるようになりましたが、これも、冨山さんのご指摘するようなミスマッチが起きないようにすることが背景にあると思います。

このようなことから、これからの望ましい従業員の姿勢は、単に、会社に雇われているという受動的な考え方ではなく、トップであればどう判断するのかというマネジメントスキルを身に付けることが、会社を強くし、自らの立場も強くすることになるということを、改めて感じました。そして、冨山さんは、「イデオロギーは何の処方箋にもならない」とご指摘しておらるように、世の中が変わっているにもかかわらず、「労働者」の鎧をつけて、自分の立場を守ろうとすること、すなわち部分最適を主張することは、まったく無意味でもあるということは言うまでもありません。

2024/7/29 No.2784

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