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言葉を育てられている感覚

こんにちは、いとさんです。

アルゼンチンのドラマを観ていましたら、面白いことが起きました。ドラマの登場人物達がセリフなしで手と目だけで話しているのです。「食べて祈って恋をして」という映画の中で、「イタリア人は手でも話す」と言っていましたけれどアルゼンチン人もその傾向があります。実際にドラマの中で繰り広げられていたジェスチャーは、アルゼンチン初心者の私でも何を言っているのか理解できるほどポピュラーなものでした。

アルゼンチンが大好きな彼のYouTubeでは、アルゼンチンでよく使われているボディーランゲージが紹介されています。例えばこめかみを人差し指で指しているのは「頭がおかしい、狂ってる」というサインです。この動画では大袈裟に表現されているので可笑しくて何度も見てしまいます。

誰に教わったわけでもないのに、私は普段から話している時の身振り手振りが大きくて手がよく動きます。妙案を思いついた時や合点がいった時には「せや!」とぱちんと指を鳴らすことがしょっちゅうあります。大阪という土地が私をそのように育てたのかしらんと思っています。漫才師の話す様子を見ていると「あぁ、自分もようやるわこんな動き」と思うのは否めません。美空ひばりさんの歌に「口で言うより手の方が早い」と言う歌詞がありましたが、違う意味で私も手の方が早いのです。

そんなことでおぼつかないスペイン語を話している時も、一丁前に手は流暢に話しているのです。手だけでなく顔や身体全部を使って話すアルゼンチンの人達の様子をよく観察していると不思議なことにだんだん同じような動きをしている自分がいます。子供達が大人をよく見ていて時々はっとするような仕草をするのと同じことと思います。そしてまるで子供が訊ねるのと同じように「これは何て言うの?」「今なんて言ったの?」「それはどういう意味?」といっしゅく友人達を質問攻めにするものですから、時々彼らは「あぁ、しまった。いらんこと言うてもうた。これは何て君に説明したらいいんや。」と苦笑いします。

脳は大人ですけれど、それを表現する方法を知らなければ子供も同然です。しかし一方でその逆も言えるのではないかと思うようになりました。子供達は大人と同様に色々なことを感じたり考えたりしているけれど、それを表現する言葉を知らないだけなのかもしれません。子供を持ったこともなければ、専門的なことを学んでいるわけでもないですけれど、そんなことがふと頭に浮かびました。「人見知り」ももしかすると根源はここにあるかもしれません。

普段よく話している人たちに自分のスペイン語を披露することは何も抵抗がないのですけれど、初めて会う人と話す時、どうしたものか急に自信を失ってしまいます。お母さんが我が子の言葉にならない言葉を理解しているのと同じで、私の傍にいる人達は何となく私の言いたいことを理解してくれています。私自身、話し相手に対して「分かってくれるだろう」という甘えが多少あって、手当たり次第言葉を並べて伝えようとするのですけれど、他人を目の前にするとそのガッツが消え失せるのです。友人達の助けがあってはじめて成り立っているよちよち歩きのスペイン語で他人とコミュニケーションを取るのは少々気が引けるのです。

また話し方のクセや速さ等の個人差は、聞き手側に徹した時に大きな障害となります。例えて言ってみれば、ほとんど会ったことがない親戚の叔父さんに声を掛けられて俯いてしまう子供です。叔父さんの使う表現やイントネーション、間の取り方などが普段聞いているお母さんのものと違う為、恐らく叔父さんの言っていることがよく理解出来ないのです。お母さんが助け舟を出してようやく叔父さんに対して受け答えができます。お母さんは叔父さんの言葉をほぼ繰り返して言うだけですけれど、子供はお母さんの言葉になって初めて意味を理解します。私のスペイン語は今そんな状態です。

クッキーの材料を買いにdietética(健康食品店)に立ち寄った時のことです。ドライフルーツが欲しいというと、女店主が「何を作るの?」と聞くのでクッキーを作ると言うと、「他に何を入れるの?」とまた質問されました。「レモンの皮をおろしたのも入れるよ」と言うと、「harina(小麦粉)はあるのかい?」と聞かれました。そのようなやり取りをしていると、ふとパン作りの話になりあんぱんの作り方を彼女に説明することになりました。買い物を済ませて店を出ようとする時、「ありがとうね、素敵なレシピを教えてくれて」とお礼を言われました。

お礼に値するほど上手に説明できたとは言えないですけれど、そこにコミュニケーションが生まれたことには違いなく、その上ありがとうと言われてしまうと顔が綻んでしまいます。小さな挫折を繰り返して擦り傷だらけでしたけれど、こういう瞬間にまた言葉をもっと使いたい、話したい、理解したいという気力が湧いてきて小さな傷の痛みを忘れていくようです。そうやって言葉を学んでいるというより、周りの人に育てられているという感覚がします。私も日本ではもう育てる側の立場にありますから、子供達に接する時は今の自分の気持ちや体験を忘れずにいたいものです。

いとさん

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