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「35%です。」「出ていけ!」

僕が物心ついた時から、母の両足の小指の爪は無かった。40代前半で歯槽膿漏に苦しんでいた。ホルモンバランスが乱れ、栄養摂取が上手くできない身体になってしまったのが原因だ。

「あなた達に栄養全部、持っていかれちゃったからよ。」

笑いながら小言を言う母の顔は、それでも優しく明るかった。

148cmという小さな身体で、母は6人の子供を産んだ。うち1人は死産だった。


◆ ◆ ◆

約30年前。
5人の子育ては全て母が担っていた。みなさん、想像してみて欲しい。

古い二層式洗濯機での洗濯。家族全員分の洗濯物を一人で干して畳んでしまう。

9部屋ある家の掃除。窓や廊下の雑巾がけ。

料理は電子レンジなどの便利な調理家電が無いので毎日手作り。

その他、庭の手入れ、季節の衣替え、模様替え、子供の送り迎えや家に必要な買い物、学校関連の行事、地域の会合など仕事を上げればキリがない。

2019年の今よりも遥かに不便な環境の中、子供5人分の子育てに関するあらゆる事を小さな母がこなしていた。

父は5人の子供を育てるため、働かない父の兄弟とその家族を養うため、人に言えないような仕事を昼夜厭わずやっていた。子育てをする時間は、全く無かった。

疲れたとも言えず、病気になることすら許されない。それでも毎日明るく優しく、決して怒ることのない母の姿を僕は見続けた。


◆ ◆ ◆

小学5年生の夏。

僕は歯医者になって母の歯を治療するという夢を抱くようになっていた。

僕の夢を両親に伝えると母はボロボロ泣いた。父はすぐに僕を進学塾に入れてくれた。こうして僕の人生の目標が決まった。

歯医者になるための唯一無二のルート。それは県東地区で一番偏差値が高く、有名大学進学を目標に掲げる中高一貫校を受験し合格することだった。

塾に通ってさえすれば合格できる、初めはそう思っていた。

しかし、現実はそう甘くない。

通い始めた進学塾は東京の大手学習塾と同じくらいのハイレベルな受験対策の授業を展開していた。

小学校5年生当時、僕の成績は5段階評価で平均3。小学校のクラスでも出来の悪い方で当然、進学塾のレベルの高さに全くついていけなかった。

ショックで打ちのめされる日々。そんな僕を母は毎日、優しく励まし続けてくれた。

夢を叶えるため、母の期待に応えるために僕は大好きだったサッカークラブを辞めた。学校の帰り道に駄菓子屋に寄ることも、少年ジャンプや少年マガジンを読むことも、天才・たけしの元気が出るテレビ!!を見ることも、友達の家に泊まりに行くことも止めた。毎日最低、家で5時間は勉強に集中した。

6年生の夏休みを終えたあたりから、偏差値が漸く上がり始めた。


◆ ◆ ◆

秋が過ぎ、冬に入り、受験日から数えて丁度1ヶ月前の日。

母と私は進学塾の塾長と中学受験・直前面談をしていた。塾長は、厳しい顔を崩さず呟く。

「…35%。」

「え?」

僕は思わず声が出た。一拍あけて、鋭く低い声で塾長は言う。

「中田君が合格する確率は、35%です。」


僕には35%の数字が死刑宣告に聞こえた。

これだけ一生懸命勉強しても駄目なのか、と思うと泣きそうになる。ショックのあまり黙り込んでんでしまった、その時だった。澱んだ空気を振り払うかのように、母の明るい声が教室に響く。

「どうすれば、うちの子は受かりますか、塾長?」

僕は諦めかけていた自分が本当にダメな奴だと思った。母は35%のという絶望的な数字を聞いてもまだ、僕を信じてくれている。

塾長は暫く考え込み深呼吸を一つして、僕に教室から一旦出るように、と指示をした。僕は教室の外から塾長と母の会話する姿を見ていた。塾長は今まで見せたことのない難しい顔をしていた。母親も同じだった。

「有り難うございました。」 

お礼を言う僕に塾長は

「覚悟を決めろよ、中田。後はお前の覚悟次第だ。」

とだけ言い、次の生徒の面談のため教室に戻った。


「国広。明日から小学校を休んで塾に行くかどうか、あなたが決めなさい。」

一緒に帰る道すがら、母がさらっと言った。


◆ ◆ ◆

2019年の現在であれば、中学受験直前に小学校を休んで塾に通う事はあまり珍しくないかもしれない。勉強に集中するため、インフルエンザ予防のためなど、休む理由は幾つかあげられる。

しかし。

私が6年生の頃、小学校を休んで塾に行く選択は非常に珍しい事だった。特に、通っていた学校では初めてのケース、言わば汚点になる。

母の問いかけに、僕は即答していた。学校を休んで塾に行くと。

学校を休んで一週間が経過したところで担任の先生と教育指導の先生が家庭訪問に来た。母は、玄関で謝りながらお引き取り下さい、と言い続ける。

それから三日後、担任の先生と校長先生が家にやって来た時も同じように、丁寧に謝りながら母は、僕を塾に行かせることを言い続けてくれた。

さらに一週間後。玄関は物々しい雰囲気に包まれていた。

僕は陰から覗き込む。担任の先生、校長先生、そしてもう一人、見た目で偉い地位だ、と分かる年配の男性が玄関で母を説得していた。後で聞いた話では県の教育委員会の委員だった。

「中田さん、小学校は義務教育なんです。出席して貰わないと。」

「申し訳ございません。」

「では、明日から中田君を学校に通わせてくれるんですね?」

「本当に申し訳ございません。それは出来かねます。」

溜息をつく教育委員会の委員。

「困りますよ、本当に。繰り返しになりますが、義務教育ですよ。」

「…はい。」

「中学受験を希望している他の子は全員、登校しているんです。」

「…はい。」

「中田君だけを特別扱いする訳にいかないんです。分かりますよね?」

下を向いて黙り込む母。

「とにかく、明日から学校に登校させて下さい。周りの生徒にも悪影響を及ぼしているので。」

「…悪影響?」

「この際ハッキリ言っておきます。悪影響です、クラスの生徒にも、他の学年の生徒にも。」

顔を上げた母。初めて見る、怒りに満ちた形相だった。

「悪影響はお前らの方だ!私の子供の夢を何だと思ってるの!」

今まで聞いたことのない母の怒声が玄関にこだまする。

「出ていけ!今すぐ出ていけ!」

「落ち着いて、中田さん。」

「出ていけ!二度と来るな、出ていけ!」

「中田さん…。」

「出ていけ!」


泣きながら、怒りながら、母が叫ぶ。

僕は涙が止まらなかった。

先生たちが帰ったあと、僕は母の胸に飛び込んで泣いた。

母は泣きながら僕を抱きしめ、大丈夫だから国広、大丈夫!と何度もおまじないをかけてくれた。


受験までの残り一週間は、今思い返しても人生で一番勉強した。

母のために何が何でも合格する、その一念で、一心不乱に勉強し続けた。


受験から2週間後、合格発表の日。

受験番号 35番 を見つけた僕と母は、今度はその場で嬉し泣き崩れた。


◆ ◆ ◆

多分、奇跡に近い合格だった。

電話で塾長に合格報告をすると、塾長は、本当か!と驚きを隠さなかった。

翌日、改めて合格を報告しに塾へ行った。

塾長は満面の笑みで握手をしてきた。

「今だから言うけどな、お前の合格確率、本当は20%だった。」

「ええっ?!」

「ご両親が一緒の面談の場合は15%上乗せして言う事にするルールなんだよ。希望を持ち続けてもらうために。」

「…そうだったんですね。」

「中田、お前、頑張ったな。お前の母ちゃんも。」

僕のために「出ていけ!」と叫んでくれた母の姿を思い出した僕は、不覚にも塾長の前で泣いた。


◆ ◆ ◆

『希望は少し大きく、勇気は断固たる決意をもって示し、最後は優しく包み込む。』

これは私の言動における大切な原理原則の一つである。

「35%です。」と「出ていけ!」は私の人格形成に大きな影響を与えてくれた。希望を持つこと、勇気を持つこと、優しくすることを教えてくれた。

これまでの人生、決してお金に恵まれているとは言えない。

が、この二つの言葉のお陰で私は出会いや友人には恵まれてきた。

そして今、こうして自由に言葉を書き連ねることが出来る。

本当に人生が豊かになった。幸せなことである。

「35%です。」と「出ていけ!」、この二つの言葉に対しては感謝の気持ちしかない。


私はあの頃の母に近い年齢になった。今では仕事でもプライベートでもお悩み相談を受けることが多くなった。

どんな立場の人であれ、どんな人間関係であれ、どうすればいいかと問われた時はいつも、15%ぐらい希望を上乗せして励ますようにしている。

そして断固たる決意をもって、自分のできる範囲で精一杯フォローするようにし努めている。

「35%です。」の塾長の声と、「出ていけ!!」と叫んだあとに私を抱きしめてくれた母を思い出しながら。



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