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38歳、藝大受験してみた。①

きっかけは、何度か取材させてもらったことのある音楽監督の一言だった。ミュージカル『レ・ミゼラブル』を日本初演から支え続け、今では世界のレミゼ関係者にその名を轟かす名物監督的存在となっているB氏。日本レミゼ30年の栄光の歴史の立役者、といっても過言ではないその功績が大きすぎて、この人がいなくなったら日本レミゼはどうなるんだろうと思い、取材後の雑談タイムに後継者の有無を聞いてみた。すると…

「誰かいい人いないですか?」

ご本人にそんなつもりは微塵もなかったと断言できる。B氏の目に、私が単なるミュージカルおタク上がりの、趣味が高じた演劇ライターとしか映っていなかったことは明らかだ。というか実際そうだ。だが氏が挙げた、レミゼにおける音楽の重要性を理解していること、という後継者の条件に私はこれ以上なく当てはまっていた(独断です)。ほかの条件も、聞けば聞くほどまるで私のことを指しているようだった(妄想です)。これはもしかして、音楽の勉強さえすれば私、大好きなレミゼに外側からじゃなく内側から関われるんじゃないの?

音楽監督という仕事を視野に入れるにあたって、どう考えても最も重要で根幹にある音楽の勉強を「さえ」扱いし、そんな野望を抱いたのがちょうど去年の今頃のこと。幸いその野望はすぐに消え去ったのだが、いやいや「さえ」じゃねーしと気づいたことがその理由かというと、全然そうではなかった。気づいたのは…

私、何やっても続かないんだった!

こっち。幼稚園と小学校の間、複数の外国を含めて計7回の引っ越しと転校を繰り返したことで、私はひとつの場所に長くいられない性分になった。(なんて、同じ環境で育った姉はそんなことないので実はただの言い訳なのだが、そこそこ説得力はあると思っている。)大人になって、30歳までの間に転職を繰り返すこと5回。これはもう、どの会社がとかじゃなく会社勤めそのものが向かないのだな、私は社会不適合者なのだな、と悟ってフリーになったのが2012年、大学を卒業してちょうど10年が経った頃のことだった。

そんな自分が、B氏の後を継いでこれから何十年もひとつの作品に向き合い続けられるわけがない。ここでもまた、「続ける」の前にある「なる」という難関を完全に無視しているわけだが、まあどっちにしろ、レミゼの音楽監督というトンチンカンな野望には瞬殺で諦めがついた。だが…

音楽の勉強をする、っていうのはアリかも。

私の中に「さえ」の部分だけが、たとえるならエレベーターに同乗していた体臭きつめの人が降りたあとの残り香のように、素敵な考えとして強めに残った。この時、町田麻子37歳。こうして、こりゃもう体験記書くしか!と思わされる、私の面白すぎる東京芸大受験への道のりが始まったのだった。

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