短編小説・治りかけのレディオ

 サンサンと降り注ぐ太陽の光の下、スタジオ裏のいつもの倉庫の階段に私は一人座っていた。
「ふわぁ~」
 大きく欠伸をする。いつも現場に来る前の日はうまく眠れない。慣れたはずのこの仕事も、現場当日はいつも緊張してしまう。
 でも、今日はびっくりするほどの快晴だった。陽気もいい。こんな日は何もなくても、心がつい浮き浮きしてしまう。
「ごめん遅れちゃった」
 そこに詩織さんがやって来た。
「ど、どうしたんですか!」
 詩織さんを見た私は驚く。詩織さんは松葉づえをついている。というかそれどころではない。
「とうとう捨てられたわ」
 詩織さんが言った。
「えっ、例のあの彼氏ですか・・」
 詩織さんはゆっくりと頷いた。
「それにしてもすごいケガですね・・」
 左目は大きく腫れあがりお岩さんのようで、顔はあちこちが腫れ上がりあざだらけ、唇は切れ、全身上から下まで包帯とビブスに覆われ、それは見るのも痛々しいほどだった。
「去って行く彼に追いすがったらバイクで二キロ引きずられたわ」
「二キロですか・・」
 詩織さんは、そんなアクロバティックな人では全然なかった。
「左足と右腕が複雑骨折。肋骨もヒビが入ってるって」
 詩織さんはゆっくりと、私の隣りに座った。今までもあざや傷を負って現場に現れたことは何度もあったが、これほど酷いのはさすがに初めてだった。
「今朝新聞見たら、デカデカと載ってたわ」
 詩織さんは少し自嘲気味に笑った。
「でも、愛してやったわ。あんなダメ男、ここまで愛せる奴はいないってくらい愛してやったわ。ざまぁみろ」
 ニコッと笑った詩織さんの前歯は、上の二本が飛び飛びに無くなっていた。
「これじゃ、撮影は無理ね」
「は、はい、というかそれどころじゃ・・」
「たばこくれる?」
「あ、はい」 
 詩織さんにたばこを差し出すと、詩織さんは慣れた手つきでそれをくわえ、それに私が火をつけた。
「ふーっ」
「詩織さん、たばこ吸うんですね」
「うん、妊娠してたから・・、やめてたんだ」
「えっ」
「でも、それも流れちゃった・・」
「・・・」
 そう言った詩織さんの目の奥は悲しみを通り越して、清々しささえ漂っていた。
 詩織さんは真っ青に晴れ渡った空を見上げながらゆっくりとたばこの煙を吐いた。その煙はゆっくりと広がりながら、そのどこまでも澄みきった青い空へと立ち上っていった。
「私が何でAV女優になったか知ってる?」
 詩織さんが唐突に言った。
「い、いえ」
「私、人殺しなの」
「えっ!」
 私は詩織さんを見る。
「私、人を殺したのよ」
「・・そうだったんですか・・。全然そんな人には・・」
「ふふふっ」
 そこで詩織さんは小さく笑った。
「私いじめられっ子だったの。それも小、中、高ずっと。田舎だからクラスメートがエスカレーター式に同じになっちゃうのよね」
「・・・」
「本当に酷いいじめだった」
 詩織さんは昔を思い出すように遠い目をして、空を見つめた。
「とても辛かったわ」
 そして、またたばこの煙をゆっくりと吐いた。
「犬のうんこ食わされたわ」
「・・・」
「朝、机の上にハトの死骸があったり」
「・・・」
「お前の友達だろって。笑うの。みんな。友達なわけないのに」
 詩織さんは薄っすらと笑い、また、ゆっくりとおいしそうにたばこを吸い、そして、ゆっくりとため息を吐くみたいに吐いた。
「屈辱だった。耐えられない屈辱を耐えてもまだ続く屈辱。絶望しても絶望しても許してもらえなかった。憎んでも呪っても、何も報われることはなかった」
 詩織さんは、光り輝く真っ青な空を見つめていた。
「ずっと耐えていたんだけど、さすがに高校の時、不登校になった。もうダメだった。心の深いところでもう限界だった」
「・・・」
「学校に行こうとすると吐くの。めまいがして、体が震えるの。痙攣したみたいに」
「・・・」
「でも、学校休むって決まると全部治るの。不思議なくらいあっさりと。だから仮病だって思われた。でも、やっぱり次の日、同じようになるの。本当に限界だったんだと思う」
「私は高校を辞めたいって言った。当時はまだ不登校ってものすごく特殊なことで、とても恥ずかしいことだったし、高校中退なんてとんでもない話だった。でも、もう限界だったし、もう無理だった。だから私は、勇気を出して高校を辞めたいって言った」
「でも、担任が家にやって来て、がんばれがんばれって、私もうダメですって、恥も外聞もなくギブアップしているのに、がんばれがんばれって、ここで逃げたら、一生逃げ続けることになるぞって。最後は死ぬしかないぞって。自殺するしかないぞって。一生逃げ続けるような人間になるぞって。それでも私が行けませんって言ったら、お前は頭がおかしいって、お前は病気だって言って、精神病院に連れてかれた。不登校が病気だって時代だったのよ」
「・・・」
「医者もカウンセリングも何の役にもたたなかったけど、薬とか山ほど飲まされて、完全にグロッキーで意識も朦朧としながら、吐いたり悶えたり、痙攣しながら、親とか担任に引きずられるように高校に連行された。そして、なんとか高校だけは卒業した」
「・・・」
「その結果、辿り着いたのが地元の名も無い短大よ。今考えたら本当に馬鹿々々しい話だわ」
 詩織さんはまた少し笑った。
「私、結婚してたのよ」
 また突然、詩織さんが言った。
「そうだったんですか!」
 初めて聞く話だった。私は驚く。
「とても素敵な人だったのよ。本当にハンサムで、頭がよくて、やさしくて、お金持ちで、信じられないくらい素敵な人だった。子どももできた。だから、本当に、もういいかって、思えていたの。いじめられて辛かったけど、でも、こんな素敵な人と出会えたんだからって。こんなかわいい子も授かったしって。大人になってもういじめの記憶もなんとなく自分の中で消化出来てた。夫の仕事の関係で、嫌な思い出ばかりの故郷の田舎町も離れられた。私にはもう遠い記憶になりつつあった」
「・・・」
「そんな時だった。私の地元で花火大会があったの。それは全国的にとても有名な花火大会だった。だから、夫も子どもも行きたいと言った。でも、私は、いじめっ子たちに会うのが怖かった。地元から遠く離れた都会だったから、もう思い出すことも無く、穏やかに暮らせていた。辛い記憶も薄れていたけど、地元に帰るのはやっぱり怖かった。だから、地元には離れてからずっと帰ってなかった・・」
「・・・」
「でも、子どもがどうしても行きたいって・・、どうしても・・」
 詩織さんはそこでまた何ともやりきれないといった遠い目をした。
「そして 行くことになった」
「・・・」
「すごく怯えていたんだけど、花火大会は県外からもたくさんの人が来て、ものすごい人だったし、運もよくて私を知っている人には誰にも会わなかった。なぁ~んだって思った。花火大会が終わって、実家に帰りついた時、全身の緊張が解けるみたいに脱力した。な~んだ。大丈夫じゃん。勝手に私が怯えていただけだったんだって。心からほっとした。もう終わったんだって思った。あのいじめはもう終わった事なんだって、心の底から思えた」
 そこで、詩織さんはだまった。
「でも・・」
「でも?」
「実家に帰って、遅い夕食を食べた後だった。子どもが急にアイスが食べたいと言い出した」
「アイス・・」
 詩織さんはゆっくりうなずいた。
「いつもそんなこと言わないのに、その日はなぜかその事でぐずったの。普段本当にいい子で、我がままを言うことすらほとんどしないのに、なぜかその日だけはとてもぐずった。それで私が近くのコンビニに買いに行くことになった。両親に頼むこともできたんだけど、花火大会で誰にも会わなかったから、気が大きくなってたのね」
「・・・」
「歩いて十分ぐらいのコンビニだった。夏で暖かかったし、久しぶりに夜一人で地元を歩くのもなんか気持ちよかった。コンビニで子どもが好きなイチゴ味のアイスも置いてあった。ラッキーって思ってレジまで持っていった。後は帰るだけだった」
「・・・」
「コンビニを出たところだった」
 詩織さんは、そこで一瞬言い淀んだ。
「重い開きドアを開けて、出た瞬間だった。そこで、ばったり会ってしまった。私をいじめていた奴の一人に・・」
 そこで初めて詩織さんの表情が険しくなった。
「そいつが「よおっ」って、言ったの」
 詩織さんの声は小さく消え入りそうだった。
「狐みたいな奴だった。一番最低でむかつくタイプだった。力の強い奴の影に隠れて、自分は関係ないのに、全然関係ないのに、面白がって・・。イジメの時、そういう奴が一番質が悪かった。何かあっても自分が矢面に立つわけじゃないから、調子に乗って・・」
「・・・」
「そいつ、「よおっ」って、なんでもないみたいに。「よおっ」って。本当にただのクラスメートだったみたいに、「よおっ」って。普通に話とかしてた仲みたいに、「よおっ」って。何の躊躇も違和感も、罪悪感も何も無く「よおっ」って。久しぶりに会った友だちみたいに、「よおっ」って・・、私はそれで頭が真っ白になってしまった・・」
「・・・」
「なんだか許せない何かが私の中に湧き上がった。忘れていたはずのあの毒々しい赤いマグマみたいな怒りと憎しみ・・」
「・・・」
「その日、家を出る時たまたま雨が降りそうだった。花火大会の時はそんなじゃなかったのに。そして、持っていた傘の先がたまたま金属だった。そして、その先がたまたま尖っていた」
「・・・」
「ぴゅーって、噴水みたいに首から血が噴き出たわ。本当に蛇口捻ったみたいなすごい勢いだった。ほんと、ぴゅーって」
 首の辺りから手をひらひらさせ、そんなジェスチャーを交え詩織さんは言った。
「そういう時人って、気が動転しておかしくなるのね。そいつ、両手を腰のあたりで広げて、足を蟹股にして、ピエロみたいにクルクル回ってた。血をドバドバ出しながら、クルクル、クルクル。どうしていいのか分からなかったのね。ものすごく滑稽な姿だった」
「・・・」
 私はその姿を想像した。
「そして、倒れた。そのままバタンって。私そんな風に意識なく人が倒れるの初めて見た。バタンって。本当にそのままバタンって。何か大きな看板が倒れるみたいに、そのままバタン。そして死んだわ」
「・・・」
「そして、私はすべてを失った。夫の会社は倒産。私の母はショックでくも膜下出血。父は一気に老け込んで、頭がボケておかしくなってしまった。ありとあらゆる親戚縁者に縁を切られた。家族も家も財産も友人知人も信頼も愛情も、本当にありとあらゆるものをすべて失った。本当にすべて」
「・・・」
「それから十年、刑務所に入った」
「十年・・」
「そして、十年経って私は刑務所を出た。でも、人の過去ってやっぱり分かっちゃうのよね。社会に復帰して新しく仕事を初めても、噂が広まってすぐに仕事を追われた。どこに行ってもそうだった。でも、そんなことはどうでもよかった。そんなのは当たり前だと思っていた。ただ、何かが虚しかった。それが辛かった」
「・・・」
「自分がなぜ生きてるのか分からなかったのね」
「・・・」
「そんな時だった。あいつに出会ったのは」
「今の彼氏ですね」
 詩織さんは小さくうなずいた。
「あいつは私を愛してくれた。私を必要だと言ってくれた」
「あの・・」
「言わなくてもいいわ」
 何か言いたげな私を詩織さんはすぐに制した。
「でも・・」
「私も分かっているの。あいつはただ私を利用しただけだって。でも、私はその愛が必要だった。たとえ偽物でも、上っ面でも、私には関係なかった。私に必要だったのは、本気で愛せるってこと。私が本気で愛し抜けるかってことだった。私にはそれが必要だった。生きるためにそれが必要だった」
「・・・」
「もう典型的なダメ男。飲む打つ買うなんてもんじゃなかった。殴る蹴る、もう、人間としての根本が破綻してた」
「・・・」
 その噂は耳にしていたし、詩織さんの話からなんとなく察していた。
「私がAV出たのもあいつの借金返すため。その借金だって浮気相手がヤクザの女でって話しで、私全然関係なかった。それなのに、お前は俺のためにAVに出る義務があるとかなんとか訳の分からないこと言って、逆切れ」
「・・・」
「浮気相手の中絶費用まで私が出したのよ」
「・・・」
「しかも病院までつき添いまでして。慰めたりしてんのよ。私が。その間あいつはまた別の女と浮気」
「・・・」
 そんな無茶苦茶な人間が本当にこの世にいるんだって思うレベルの話だった。
「すべては経験だって」
「えっ」
「すべては経験だって。苦しみも苦労も、いつかそれがあってよかったって思える日が来るって」
「・・・」
「出会った頃、あいつはそう言った。私の過去をすべて知ってそう言ったの。「そんな日がきっと来る」って。「俺がそうだったから」って。ニッて笑うの。あいつは歯並びだけはよかった。その歯が光るの。キラッて。私はくらくらした。本当に眩暈にも似た感動が、私の脳の中に木霊した。ありとあらゆる脳内麻薬がどぴゅどぴゅ出てるのが分かった。致死量なんじゃないかってくらいドバドバ出た。私はもうくらくらした」
「・・・」
「私は女だった。どうしようもなく女だった」
「・・・」
「私はこいつを愛そうと思った。それが私なんだって思った。私はこの男をとことん愛してやろうと思った。それが私なんだって。これこそが私。絶対愛してやる。とことん愛してやる。殴られても蹴られても殺されても絶対愛してやるって。愛し抜いてやるんだって思った。いえ、誓ったわ」
 そう語る詩織さんは、なぜかどこかうれしそうだった。
「もう生活は無茶苦茶。階段から突き落とされたこともあった。背中を包丁で刺されたこともあったわ。自分で救急車呼んで、医者に行った。どうしたんだって医者に訊かれて階段で転んでって、階段で転んでなんで背中に包丁が刺さるのよって自分でも思ったけど、必死だったからもうごり押し。医者も訝しんでたけど私の勢いに押されて黙ったわ。入院しろってめちゃくちゃ説得されたけど、家に帰った。私がいないと何も出来ない人だったから」
「・・・」
「でも、やっぱりやばいくらい痛くてちょっと動くともう寝てるしかなくて、でも、そんな私が寝てるすぐ隣りで別の女引っ張りこんで平気でセックス始めるの。そんなのが日常」
「・・・」
「でも、惚れ抜くの。惚れて惚れて惚れ抜いてやるの。浮気されても、裏切られても、捨てられても、どんなことをされても、惚れて惚れて惚れ抜くの。あんなダメでどうしようもない奴をそこまで愛したやつはいないってところまで私は惚れ抜くの。惚れ抜いてやるの。私はそう誓った」
 そう語る詩織さんの目には鬼気迫るものがあった。
「詩織さん・・」
 私は思わずつぶやく。
「ふふふっ、愛し抜いてやったわ。私はやったのよ」
 そう笑う詩織さんの目には、凄みすら滲んでいた。
「私、やったでしょ?」 
 詩織さんは私を強く見つめてきた。
「は、はい・・」
 ピー、ヒョロロ~、ピー、ヒョロロ~
 相変わらず、詩織さんの壮絶な人生とは関係なく空はどこまでものんきに晴れ渡り、そんな空の彼方にトンビが一羽それに輪をかけるようにのんきに舞っていた。
「あいつに出会う前」
「えっ」
「夫が待っていた」
「えっ!」
「私が刑務所を出たらそこに彼が立っていた。もう、昔の面影もないくらい、苦労が滲み出た姿で立っているの。地獄を見たんだなって一瞬で分かった。あのかっこよかった、苦労なんか微塵もしたことがない、洗練された気品もカッコよさも余裕も完全に消えてやつれ果てていた。ものすごい苦労したんだなって、一瞬で分かった」
「・・・」
「そんな彼が立っていた。立っているはずのない場所に立っていた」
「・・・」
「そして彼は言った」
「「私を今も愛している」って。「私を許す」って・・・、そう言ったの」
「最初意味が分からなかった。何を言っているのか分からなかった」
「・・・」
「でも、本当だった。目を見ても、目の奥を見ても。彼は私を愛していた。私を許していた。本当だった。本当に愛していた。本当に許していた。それは本当だった。だから私は・・」
「私はそれが罪だと思った。それが私の罪。人を殺し、たくさんの人を傷つけてしまった私の罪。彼の目の純真さが私の罪だと思った」
「・・・」
「例え相手がどんな人間であったとしても、私を理不尽に傷つけた人間だったとしても、絶対に許せない奴だったとしても、私は人を殺してしまった。その事に対して刑務所なんか何の贖罪にもならない。私はその時知ったの」
「・・・」
 AV女優さんは気難しい人が多い中、詩織さんは私みたいな世間知らずの大学出たてのド新人マネージャーにもとてもやさしかった。怒られたことなんか一度もなかったし、私がミスをした時は、いつもかばってくれた。お金がない私にいつもご飯をおごってくれた。
「未希ちゃん、本当にいいの?」
 その時、権田監督が撮影現場から出てきた。
「はい」
 私は来月AVデビューが決まっていた。
「じゃあ、日程決めちゃうよ」
「はい、よろしくお願いします」
 詩織さんが少し驚いた顔で私を見た。
「私もAV女優になります」
 私はそんな詩織さんを見返す。
「自分から苦労する必要なんかないのに」
 詩織さんはそんな私を少し微笑みながら呆れるように見つめた。
「あなたはそう生きれる人間でしょ」
「私、詩織さんを見ていて本当に奇麗だなって思ったんです。本当に輝いているなって思ったんです。私、何のとりえもないし、ぬくぬく恵まれた環境と立場で何となく生きてきちゃって、そういうのもうやだって、うまく言えないんですけど・・」
「そうか」
「私本当に生きてみたいって思ったんです。詩織さんみたいに。本当に・・」
「大変だよ」
「いいんです」
「すべて失うよ」
「はい、覚悟してます」
「彼氏いるんでしょ」
「はい、彼にはいずれ話すつもりです。彼なら分かってくれると思うんです」
「後悔するよ」
「でも、もう決めたことですから」
「ほんとに、あなたは・・」
 そう言って、詩織さんは無事な方の腕で私を抱き寄せた。詩織さんの胸の中は詩織さんの匂いがした。病院や薬の匂いに混じって、詩織さんの温かい匂いがした。
「さっ、今日は撮影も無理だし、帰ろっか」
「はい」
 詩織さんは立ち上がった。
「ああっ、なんかもうすべてがすっきりしたって感じ。もうこれから何してやろうかしら」
 詩織さんは傷だらけの体を思いっきり伸ばして、伸びをしなが言った。
「とりあえず、駅前でケーキ食べ放題ってのはどうです?」
「おっ、いいねぇ」
 その時だった。詩織さんが何か別のものを見ていることに気づいて、私は顔を上げた。そして、詩織さんが見つめている視線の先を追った。
 そこにはやせ細った中年の男性と一人の凛々しい青年が立っていた。私は一目でそれが詩織さんの旦那さんだった人だと分かった。そして、その隣りにいるのが詩織さんの子どもだということも。
 詩織さんは震えていた。全身の奥底から震えていた。
 詩織さんは立ち上がると、夢遊病者のように、ゆっくりと二人に近づいて行った。
「母さん」 
 青年が言った。青年はお父さんそっくりのやさしい目をしていた。
 旦那さんはやさしく詩織さんを見つめ続けていた。詩織さんは金縛りにあったみたいにただその視線を見つめ返していた。
「もういい」
 旦那さんが言った。
「もう十分苦しんだだろう」
「わぁー」
 その瞬間、詩織さんは旦那さんの胸の中に泣き崩れた。そして子どものように力の限り思いっきり泣きじゃくった。
「ごめんなさ~い。ごめんなさ~い。わあ~ん」
 そんな泣きじゃくる詩織さんを旦那さんはやさしく抱きしめた。
「もういい。もういい。帰っておいで」
 詩織さんは旦那さんの胸の中で、泣きながら何度も何度もうなずいていた。

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