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世界の変化—なぜ日本の教育は変化を強いられるのか


 アメリカでは新自由主義(ネオリベラリズム)の思考つまり自由市場が効率性を促進するという主張が核となる哲学を他国に輸出し、敷衍する。これは各国のグローバル経済の始まりを意味する。新自由主義とは、政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方である。政策としては、国営、公共部門の民営化、規制緩和による経済の自由化を進める。その結果、個人や企業に対しても市場での絶えざる競争と自己革新を求めるようになる。市場での優劣勝敗が人の生活レベルに直結し「幸せ」の尺度となる。こういった新自由主義のもとにおいては、市場の公平性の確保が必須であり、国家はそこに対しての整備は整えるだろう。しかし、自由競争の結果は自己責任になる。社会保障の低下、雇用の不安定化、生活格差が生じることになる。そして、自由な資本はグローバリゼーション(国際的な分業体制)によって成立するようになる。日本国内での資本活動だけでは、国家間の競争に負けてしまう恐れがあるということだ。各国が挙ってグローバルな資本活動に乗り出すということである。
 グローバル化とはアメリカの価値観を敷衍することであり、日本などのアメリカ以外の国にとっては、アメリカの価値観に合わせることである。そうである以上、アメリカの新自由主義化は当然世界各国の目指すべきものになる。各国が国内だけで経済活動を行うだけでは先進国家としての維持が困難になる。つまり、グローバル市場で勝つことこそが「我々の成功」「我々の幸福」ということになってくる。このグローバル化の文脈において核となる適応行動は国際競争力であろう。なぜならグローバル化は知識の活用に取り組むからだ。この志向は、グローバル化の動きを加速し、資本、人的資源、技術と情報の流れのスピード早める。こ状況は国家による統制を上回るだけではなく、多くの国が能力を必要とする競技のアリーナへと追いやる。
したがって、国際競争力は各国がグローバル市場で生き残るうえで鍵となる要素となる。そして、グローバル化の核となる哲学が、社会的公正の位置に取って代わることになる。国として正当で公正な責務に当たる国民の保護を押し退けることができる。それゆえ、福祉や平等といった思想はもはや政治課題に上がらないか、少なくとも後回しにされる。
 この国際競争力の呼び声は、国民のための社会的保護の提供という、国民国家の力量を弱めてしまったといえる。社会福祉はいまや、国民の基本的権利というよりも特権として再定義される。国家の責務は富の再分配、雇用の創出、社会的平等の責任に関わっていいない。市場のイデオロギーが個人の選択に優先し、社会福祉といった集団的哲学が切り捨てられることを示す。よって、国家は次第に伝統的な福祉の義務から手を引き、それらは単に家庭内の問題として定義される。このような価値観がグローバルスンタンダードになると、この価値を伝搬していかなければならない。国家はグローバル化の進行を権力行使の強制力を通してではなく学校教育を通して行おうとする。支配的集団の秩序を自然なものとして受け入れるように、大衆を従順な身体へと涵養するものとして機能させる。グローバル化を稼働するために、人が自発的に従う身体に作り上げる学校教育を通して行うのである。すると、グローバル市場で成功するための国際競争力を高めようとする国家は当然学校教育においてもその原理を要求する。学校は社会の縮図である。とよく言われるが、それは国家が国の労働力の確保のために機能していたことが起因である。言い換えれば、学校教育は国家権力の行使に左右されるということである。つまり、日本がグローバル市場の原理を受け入れた現在、学校教育においてもその原理を基とした教育がなされるようになる。教育においても競争の価値観が強制される。競争に敗れた者は自己責任論で片付けられる。国家は責任を取らない。新自由主義、グローバル化の名目を盾にとって。先述した「福祉の放棄」が意味するように。今後の我々は自己責任のもと様々な形式、方法、能力で生き残っていかなければならない。多種多様な能力で持ってグローバル市場に乗り込まなければならない。これまでの旧態依然とした学校教育では太刀打ちのできない世界が待っているのである。それはある意味では自由を表象するが、戦後の日本的教育を受けてきた我々にとっては受け入れがたい現実が待ち受けているかもしれない。

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