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育てるべき人材の変化 「幸せ」の変化


 教育基本法の第1条には、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。子どもは人格的に完成していない、だから「あるべき人間像」として道徳を教え完成に導かなければならない。日本の学校教育の芯にあるのはこうした考え方だ。国家が「日本国民とは、こうあるべきだ」という恣意的な「常識」を植え付けることで日本国民として立派に労働し、納税する。結婚し、出産して子育てをする。戦争が起きれば、兵士として従順に戦うことを可能にしようとしているのである。つまり、日本という「国」が「国のため」に教育をしようということある。一方では子ども達の人権を語りながら、もう一方で子ども達は未熟で不完全な存在として断じている。学校が嫌な場所になるのも当然のことだ。
 問題の本質は、国家が人間の規格=「常識」という鋳型を作り、そこに人間関係を無理やり押し込めようとすることにある。その教育システムそのものの誤りに気付いていないから今でも学校は恣意的な常識の洗脳機関なのだ。そのうえ、「学校は社会の縮図だから、学校生活をきちんとすることが大切だ」とか「社会に出たら役に立つからだ」とか「大人になってから困るよ」とかいう幻想に惑わされてはいけない。現実はそうではないのだから。本来は自分にとって「正しい行い」ができるかどうかにかかっているのだ。じぶんの「やること」「身を置く場所」によって「常識」が異なる社会を今後は生き抜かなければならない。
 

 グローバル化、AIの台頭、インターネットの普及によって、旧来型の「国民国家」が解体されつつある現在、もはや「国民」の養成機関としての学校は何の価値もないのかもしれない。われわれは「国民国家」が過去のものであり、今日においては幻想であることに気付いているはずだ。過去の国民国家が有効であった時代において、国家が「幸福な人生」を送るための方法を教えてくれた。そして、現実にその通りになった。いい大学を出て、いい会社に入り、終身雇用が約束された中で結婚相手を見つけ、子どもを作り、マイホームの一つも手に入れる。私たちの祖父母世代、親世代の人たちを始め、若者においても未だにこれが「幸せ」なんだと思い込んでいる。そんなはずがないことを自覚しながら、、、。学校はそうした常識を叩き込む洗脳機関として十分に機能して言える。日本人は、両親や学校の先生から「いい大学に入りなさい」「学校で落ちこぼれないようにしなさい」と指導される。それが幸福へのプラチナチケットであるかのように。しかし現在、いい大学からいい会社に入るだけでは幸せになれないと、誰もが実感している。国民国家の幻想が失われたことによって幸せの形に正解がなくなった。つまり、多様化したのである。もはや学校で「一つの常識」を教え、「一つの教科書」を与えていれば間に合う時代ではない。
 

 近年それを象徴するような事件も頻発している。たとえば2016年に大きな社会問題となった電通の女性社員の過労自殺事件。東大卒業という学歴エリートであり、一流の広告代理店に就職できた就活エリートでもあった彼女は、結果的に最大の不幸を自ら選んでしまうことになった。誰もが共有する幸せの正解がなくなった現在、人は国民ではない「民」の一人として、自分だけの幸せを探し、生き方を探し、働き方を探さなければならない。それは画一的な学校で教えられるものではない。国民国家(学校)の常識にしがみついたままでは、時代の流れについていけず、大きな壁にぶつかるだろう。新しい生き方、働き方とは何か。近未来では、従来の「幸せ」を求めると、多くの人はどうしても「不幸な人」になってしまいます。「趣味」や「死ぬまでやり続けたいこと」ない人、学校や仕事、恋愛、結婚(家族)以外に「やること」のない人は特に危険です。どれもいつかは必ず失います。結婚しても全体の3分の1は離婚をします。会社を定年したら、会社をクビになったら、会社が辛くて辞めたくなったら、あなたはどうするでしょうか。多くの日本人は路頭に迷うことでしょう。会社や配偶者、お金な、地位、名誉など損失可能性のある外的なものを手にしても「幸せ」はこない。あなたの存在意義はあなたが決めて、あなたにとって価値のあることをやるために生きていくべきだ。その中でしか「幸せ」の正解は見つけられない。


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