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均質化社会から自分を解き放つと次世代を育む土壌づくりとなる

1.芯はしっかりしてる彼の「主体性」


先日、もうすぐ社会に出る一人の学生が運営するワークショップに参加しました。趣味の域を超えた彼の表現特技を、実際に体感できるワーク内容に関心があったからです。(そのワーク内容の詳細は端折ります)

ワーク参加後に認識したのですが、その学生さんのお母さんの表現を借りると、彼は「適応障害も起こして不登校になったHSP」だそうです。

HSP(Highly Sensitive Person)は、生まれつき感受性が強くて人一倍敏感な気質のある人で、病気ではありません。それよりも、この日ボクが最も強く感じた点は、彼の「主体性」の素晴らしさです。

当日は親子参加も多く、幼少のお子さんを含む幅広い年齢層でしたが、その日の彼の立ち振る舞いに、高いコミュニケーションスキルを感じました。

ワークショップ運営において、彼が「参加者には、あれこれ教え込むのではなく、どう楽しんで何を感じ取ってもらいたいのか」という「主体性」が、とても明確だったのです。

物静かな佇まいの中でも、しっかりとした芯があるからこそ、彼が持ち合わせている感性と造詣の深さを、自然に感じ取ることができました。

ここに、一つの問いが頭を過ります。
なぜ、そうした芯(主体性)がある人が、学校では馴染みにくい社会になっているのか?という点です。


◆個々の感性の芽を摘んでしまう社会


「自分はどうしていきたいのか」
「人とは違う点をどう活かしたいのか」

今は、こうした主体性がある人ほど、どうも息苦しい社会になっています。

これは、オトナの職場や産業全体が、主体性がある人を実質的には「求めていない」ことが実態であり、コレが人が育まれる現場にも、決して良い影響を及ぼしていないという仮説をボクは立てています。

つまり、主体性のある子が学校に馴染めない点ではなく、「社会が主体性のある子は馴染めない学校をつくっている点」に焦点を当てて、多くの生活者がこのことにもっと関心を寄せるべきことではないかということです。

海外赴任の人の話を聴くと、海外では人と違うことが「求められている」ものの、日本では人と違うことは「認められてはいる」が「求められてはいない」ということ…これは、学校・少年スポーツ・就職後の職場という「組織運営側(枠組みをつくる人)」が主体で、全ての物事が動いているという実態の象徴かもしれません。

その主体者達に都合の良いことに向けて、「自主性」ある行動をする人、枠組みに従順で統治者が「満足」する結果を出す人は、評価が高くなるという構造を生み出しています。

その一方で、自分は、どこに誰にどういう幸せをもたらせたいのか…自分はどうしたいのかという「主体性」をもち、今取り組む学びや働きに「納得」したい人は、はじき出される傾向があります。

つまり、「人とは違うこと」…その人が持つ個性や独特の感性は、カタチの上では「認めてはくれる」が、この国ではそれは「求められてはいない」ために、評価されることがない。
これでは…感受性が強く、主体性がある人ほど、自分の居場所が見出せなくなります。


2.協調性に欠けると片付けられた少年時代


小学生時代にさかのぼること半世紀近く前のこと。

  • 枠にハメられる窮屈感

  • オトナが満足する答えを言わないといけない違和感

  • 統治者を満足させないといけないことに納得いかないことだらけ

こうしたことに苛まれてきたことは、ボクも鮮明に覚えています。

学校の先生の指導方針に抗うことも多かったためか、通知表にはいつも「協調性に欠ける」と記載されていました。
そう評価されたとしても、ボクには納得のいかない学びを押し付けられることに嫌悪感を示すことが絶えませんでした。

たとえば…

「5つのパンを8人で均等に分けたら1人分は何個?」という算数の問題があれば、学校で求められる答えは「5/8個」となります。

この算数の問題は、最近知人のSNSにアップされていたものです。
ボクが小学生時代、似たようなこういう「問題」では、学校が求める「答え」に、常に疑問を感じている人でした。

ボクは、さっと数式が頭に浮かぶことよりも、実際に「パンを均等に分けるシチュエーション」となったことを想像しながら考えるタイプでした。
いわゆる「お勉強」ができないボクの場合は、50代半ばを超えても、そうなります。

  1.  パンが1個しかなかった場合は、8等分にして分ける

  2.  そのパンが5個もあるから、同じことを5回やる

  3.  8人は、それぞれ1/8のパンが5回配られる

  4.  それをつなぎ合わせたら5/8となる

  5.  したがって、算数的な答えは「5/8個」ということになる

しかし、そうなると、日常的なことに照らし合わせての違和感が、猛烈に襲ってくるのです。


◆大人も日常では使わない答えをなぜ?


まず「納得」が行かない点は…

「5/8個」…そんな言葉を、実生活で使うか?って話です。 

学びとは、幸せに生きるために使うものだとしたら、日頃使うわけでもない言葉として、なぜ「5/8個」で答えを良しとされるのか…そこに「納得」できるものが何もなかったのです。

お買い物で、白菜やキャベツを、「2分の1カット」「4分の1カット」とは言いますが、「8分の5カット」なんて、売りにくいし、カットしづらいし…実生活では、まず使う言葉でもありません。

もちろん、学校ではそういう掘り下げは取り付く島もなく、モヤモヤは積るばかりで、「5/8個って…なんやねん、それ!」という違和感は、いずれ増幅して嫌悪感に近いものになっていました。

それなら、最初から「ケンカにならんように、具合良くするためには、1個のパンを小さくするためには、何等分にしたらいいでしょう?」と聞いてくれよ!と、問題内容自体に腹が立ってくるんですね。

そして、1個のパンを具合よく8等分されたものを「小さなパンが1個」と言い換えたくなるんです。

要は、「8等分にされた小さなパンを、8人のそれぞれ5回渡す」という結論なら、まだ腑に落ちるんですが、そういう事に向き合ってはくれない先生にも不信感が生まれてしまう…ボクの小学生時代は、その連続でした。


◆実生活に結び付けて考えることが嫌われる


さらに…ボクは「均等」に分ける意味まで掘り下げてしまう子でした。

「そのパンが円形や正方形ではなく、山形パンや歪なカタチをしているパンなら、一体どうやって切ると良いのか」とまで考えてしまうんですね。

または、あんパンや惣菜パンのように、いろんな具材が練り込まれているパンであれば、具材部分まで均等にするのはどうするんだろう…。
あんパンなら、パンの中で、あんこの位置に偏りが起きているかもしれないとまで考え込んでしまうんです。

「均等の目的は、おそらく不平不満が起きないようにするためなんだろう」という意識が働いてしまうからなのでしょう。

そこまで意識が行ってしまう子供は、高学年になるにつれて「屁理屈を言うな」と、叱られて終わりとなるのが関の山なんですね。

もっと辛いのが、クラスメイトからの「ナニそれ?ウケ狙いなん?」という冷ややかな対応でした。
当人にしてみれば、至って真剣に真っすぐ歩んでいるのですが、周辺の同級生から、余計な寄り道をするなと責められ、さらには先生が「満足する答えを早く言え」と、責められている気になってくる…。

これでは、「納得」いかないまま先へ進む…それはもっと掘り下げたい自分にウソをつきながら、探究したくなる意欲を自ら削いで歩めと言われていることと、何も変わらないんです。

おそらくボクも幼少の頃から、HSPなんでしょう。
それでも、あれから半世紀近くも経つのに、今も多くの大人達に問いたい。
「学び」とは一体、何のためにあるのでしょうか?

先生が求める答えを早く出すために学ぶのではなく、自分が将来幸せな人になるために学ぶ…少なくともボクはそう考える一人です。


3.各論ではなく総論的に問うべきこと


  • 自分が「納得」できることまで掘り下げることは求められない

  • 権限者や統治者が「満足」できることを最優先に求められる

実はこのことは「学校のあり方」だけで考えるのは危険なことです。
もっと手前の「社会全体の環境」について考えていくべきことです。
 
システム経済などの構造主義や、枠組みの中に納まることを良しとする社会が生み出した「ステルス的に忍び寄る均質化の弊害」と言ってもイイかもしれません。そしてこれは、学校教育、少年スポーツ、経済活動のあらゆるところで共通していること…ココが肝(きも)なんです。

誰もが認めるところとして、何事も、各論(ミクロ的視点)だけでは、根本的解決にはなりません。
社会全体や時系列的にも長いスパンによる総論(マクロ的視点)で、主体的に生きようとする人ほど、なぜ息苦しい国になっているのか…そこに多くの人が関心を寄せる必要があります。

実は、それは多くの大人も気づいていることなのに、「社会全体を動かすのは無理だろう」「社会とはそういうものだ」という諦めの固定観念からなのか、論点に上がることがとても少ない…。
それでも、子供達は大人の嘘を見抜く天才達なので、そうしたことは「オトナ達はズルい」と、しっかりと見抜かれています。

冒頭引き合いに出した彼のように、「適応障害」に追い立てているのは、本人の気質ではなく、社会全体が造り出している同調圧力的な空気による影響が大きいという仮説のほうが的を得ている気がしてなりません。

要は、社会が造り出す空気のほうが「素敵な感性をもつ個のチカラ」に対して「発育障害」を起こしている可能性が高いということです。


◆次世代は自分に合う社会を創る時代へ


自分はこういうことがしていきたいという「主体性がある人」よりも、「組織に従順で自主性ある人」に育て上げようとするのは、大量生産大量消費・成長経済前提の構造主義・全体主義の人達にとって、とても都合の良い人財育成だったかもしれません。

しかし、誰もが経験したことがない「加速度的に進む人口減により日本全体が過疎化」する未来を迎えるにあたり、いま目の前にあるこれまで誰かが造ってきた常識を疑い、新たな未来のあたりまえづくりをしていく上では、自主性よりも主体性が求められるのは間違いありません。

それと同時に、うちの娘も含む若い世代には、社会に自分を合わせるのではなく、自分達に合う社会を主体的に創ることができる未来が待っています。

そして、ボクら世代は、今ある常識を疑って、挑む姿勢を楽しむことを背中で魅せることだけは責務として全うしたいんです。


◆自分を解放して良い空気を草の根でつくる


毎月、ボクが企画運営を担う交流会参加者と、先日、次のような対話で盛り上がりました。

枠組みがあったほうが、組織も人も早く「成長」しやすい。
しかし、枠組みを外していかないと人間は「進化」していかない。

このやりとりは、とても腑に落ちるものでした。
与えられた画用紙からはみ出たところで表現したり、額縁(枠組み)の外で自己表現をすることは、実はとても素敵なことなんです。

それでも、我々は小学校時期から、ずっと「枠組み」の中で収まり良く育てられてきたプロセスにおいて、「個」の感性や可能性は蓋をして、枠組みが求める答えを早く的確に出すトレーニングばかりを受けてきました。

そうなるとどうなるのかというと…「あれ?本当の自分は、一体何をしたかったんだっけ?」も見失ってしまうんですね。
実際に、「あなたは一体、本当は何をしたい人だったのですか?」と聞くと、大半のオトナが明確に応えられません。

さらに踏み込んで表現すると、枠組みから外れて本来の自己表現をしてみること自体、勇気がなくて一歩が出ないんですね。

そこで…
 
「草の根の笑顔創造ゲリラ」と自負するボクらは、次のようなことから、地道に仕掛けています。

40歳にも50歳にもなって、「あれ?本当の自分は、そもそも何がやりたいんだっけ?何をやっている時が、自分が活かされていくんだっけ?」と不安になる人が多いからこそ…
 
「さあ!怖気づくことはない!…みんな幸せになるために生まれてきたんだ。いつまでも、枠組みに収まることなく、自分は何がしたいのかを探すと決めることから始めれば良いじゃないか!…今からでも、もっと自分を解き放してみよう!」という仲間を増やす活動を企画しています。

枠組みからはみ出て、自分を解き放つことに臨む。

そういう背中は、必ず次の世代を担う若者たちも、微笑ましくかつ、頼もしく視て感じ取ってくれています。


◆HighlyよりもUniquely…ユニークが良い


残念ながら、冒頭記載の未来ある男性も、均質化社会となっているこの国の現状下では、就職活動は間違いなく苦労するでしょう。

なぜなら、彼もまた、ボクの娘が経験しているように、自分の感性を見失ってまでも枠組みにハメ込むべきではないし、当人達も枠にハマりたいとも思っていないでしょうから。

残念ながら、今は、言葉では「主体性がある人を求める」とは言いながら、結果としては「従順で生産性を上げる適合性」を求めるのが実態の企業が大半です。
そのため、人と違うことを「認めて」はくれても、「求められて」いないのなら、心身のバランスは崩れる一方なんです。

本来、彼ら世代は「個」が活きる生き方をしてくれなければ、未来に活きるイノベーションは生まれないし、未来のあたりまえは創れないことを、ボクらは知っています。
だから…「自分はどういうことをしていきたい」という「主体性」をハッキリとアウトプットし続けて行けば、必ず人との巡り合わせはできると信じています。

彼ら世代は、まだまだ可能性は無限大です。
だから、彼らの感性を潰すような職場環境なら、こちらから願い下げというくらいの意気込みで構いません。

今は、オトナほど主体性を無くしているので、彼ら世代には、「知識」の詰め込みよりも、その人にしかない心豊かな「知性」を大切にして欲しいと願っています。

そして、試されているのは、ボクら世代!
したがって先述のとおり、ボクらは「そろそろ枠組みから外れて、自分を解放してみようか」という可愛げのあるオトナを草の根で増やしていきます。

さらに、ボクらにも思いもよらなかった着眼点がある若い人に出逢えると、なんて素敵な独創的感性に刺激をもらえるんだろうと、感謝したくなる社会を小さくコンパクトにつくります。

HSPは、Highly Sensitive Person…これは「Highly」ではなく「Uniquely」
もはや、USP…Uniquely Sensitive Personで良いんじゃないかなとも思うわけです。
枠にハマらない過剰で特別な人なのではなく、枠にハマる必要がないユニークな人達がたくさんいる社会です。

不完全である自分を本気で楽しみながら、気づけば自分にしかない感性や気配りが人の役に立つことになっている。
結局、社会は、「不完全」で「弱い」人が集合体となるから、得意とする人が手助けをし合って、経済循環していくんです。

不得意な事を無理やり克服する時間があれば、とことん得意なことを伸ばす時間に充てれば良いんです。
それは、子供も大人も同じです。

自分を解き放っていく、がんばり方も間違えなくなるし、自分にできること・自分だからできること・自分にしかできないことが、人からの「ありがとう」に変わっていく…経済は「ありがとうの循環」でできているんです。

さあ、まずは我々世代の大人達よ!
枠組みからはみ出して、自分を解き放とうか!!
次世代に、ユニークな大人の背中を魅せてやろうぜ!!

<以下、関連コラムを二つほどリンクしておきます>

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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