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ヨコのつながりを層で行き来しましょうという話【エッセイ・弦人茫洋2021年6月号】

このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこのリンクからお読みいただけます。


ボカロという発明

 先日、大学時代の先輩とオンライン飲み会をした。その先輩は今中学校の先生をしていて、教育現場の(というか、今の10代の文化についての)リアルな話題が自分にとって新鮮で面白かった。

 その中で特に興味深かったのは、給食の時間に流れるお昼の校内放送の話。放送委員会が日替わりで企画するラジオ番組みたいな取り組みだ。校内放送の目玉と言えば音楽のコーナー。生徒のリクエストで好きな曲をかけてもらえるというもので、その時々の流行が如実に反映される。

 話を聞きながら、自分も中学校時代を思い出して懐かしかった。当時はORANGE RANGEやBUMP OF CHICKENが人気だったっけな。俺はクラプトンの「After Midnight」とか、ガンズの「Welcome To The Jungle」とか、METALLICAの「Enter Sandman」とか流して、ぽかんとされてたけどな。そのおかげでおっさん先生と仲良くなって洋楽いろいろ教えてもらったけどな。フランク・ザッパとか。Hot Tunaなんかも教わった。それにしてもフランク・ザッパを「洋楽」とは違和感がある。

 俺がマセた中坊だったことはどうでもいいが、ここで言いたかったのは、お昼の校内放送って大体そんなもんって言うか、J-POPが流れるものだし、言ってみりゃ「Mステごっこ」みたいなところがあった。


 令和の校内放送事情は、というと、先輩によると「ボカロ」が主流なのだそう。「ボーカロイド」。ざっくり説明すると、機械で入力した歌声を人工的に再生してくれるソフトのこと。

 俺たちがボカロに出会ったときは、あくまでも本番RECのリハーサルとして仮歌を入れて確認するための用途であって、実際に楽曲を完成させるのは人間のヴォーカリストが担う役割だった。

※ちなみにこだわると、ヴォーカリストにとって「仮歌」も人間の声で聴くに越したことはなく、その場合は仮歌を歌ってくれる歌い手さんに依頼をしなければいけないが、俺たちが学生だった頃はそんなお金もないので歌い手さんを雇うお金を節約する意味でボカロを導入する人も少なくなかった。


ヨコのつながりが価値を持つ時代

 ところが現代は、「ボカロ」が一つの音楽ジャンルになっているのだという。

 あらかじめ断っておくと、ボカロの良し悪しをここで議論するつもりはない。それはここで話したいことではないし、そもそも音楽の好みなんて人それぞれだと思っているから俺ごときがボカロを良い悪いで語れるものでもないからだ。

 今日ここで話したいのは、ヨコのつながりを何層にもわたって持っていることが今後重要な価値になるのではないか、ということ。その導入としてボカロを例にとりたい。


自己実現を可能にしたボカロ

 ボカロの圧倒的な利点は、人間にできないことを代行させられる点にある。ボカロPの皆さんからは、他にもっとマシなことを言えと怒られそうだけど、今回はこれで進めさせてほしい。

 何がシンプルかって、自分では歌えない曲を歌ってくれる存在がボカロであって、自己表現のツールになりうるということ。音域が違うとか、そもそも歌が得意じゃないなどの理由で歌を歌うことに抵抗がある人でも、気兼ねなく歌モノの曲を制作することができる。

 歌が上手ではない、というのは結構なコンプレックスになりうるから、自分が作った曲がどれだけ良いものでも、歌えないのなら宝の持ち腐れ状態になる。ボカロという技術はそういう音楽家たちを救う存在だったのだと思うし、俺の場合はたまたまそれがギターだったというだけのことで、置き換えて考えるとよく理解できる。


 昔は音楽で何かを表現するなんて一部の人にしか許されない特権みたいなものだったけど、それを一般の(プロではないという意味)人にも可能にした功績はやっぱり果てしなく大きい。DAWのソフトやiPhoneに入っているGarage Bandみたいな作曲アプリも同じような意味で素晴らしい発明だったけど、ボカロは特に「歌」や「声」という、コンプレックスに関わる可能性のある分野にリーチできたからこそ爆発的に人気を得たのだと思う。

 自分にはとうてい無理だと思っていたことを可能にしてくれるから身近に感じるし、環境さえ整えれば誰でも自分の表現を持つことができるから、共感も強くなる。BOOWYにあこがれて自分も武道館ワンマンライブを目指すのと、ボカロの曲を聴いて好きになって、自分もボカロをやってみようというのとでは、身近さが全然違う。もちろん、難易度の話をしているわけではなくてあくまでも距離感としての比較だけれど(つまりボカロを導入したからってカンタンにいい曲が作れるわけじゃないぜってこと)。


同じ立場だから共感できる

 ボカロに共感する人がたくさんいて、一つの音楽ジャンルとまで呼ばれるようになった背景には、そういう共感の強さやヨコのつながりが、どう考えても絶対にある。

 これは何も音楽に限ったことではなくて、どんな分野でも言えることだと思う。一つの成功例やロールモデルみたいなものがあって、その地位に自分も上り詰めるために他人を蹴落としてのし上がるみたいなタテのつながりよりも、同じ感じの人が同じ感じの場所に同じ感じの温度感で集まって互いに認め合うヨコの価値観にシフトしている。

 芸能人に憧れる価値観がなくなったわけじゃないんだけど、すべてを投げうって崇拝するみたいなタテ方向じゃなくて、みんなで推しを応援しようっていうヨコの広がりを見せていて、その人がその辺のことをわかってるかどうかは、どんなサービスをしているか見ているとなんとなくわかったりする。もちろんタテ方向に崇拝するファン像が間違っているわけではないしそれも一つの在り方だけど、少なくともこれからなにかを始めようっていう人がとるべきスタンスとしてはおすすめしにくいってこと。


 さらに言うとその芸能人自体もヨコにつながっている。俳優のAさんはAさんの世界観しか持っていないんじゃなくて、芸人のBさんやサッカー選手のCさんと親交があるなんてのはよく聞く話だ。

 そのつながりが広ければ広いほどAさんの魅力は増すし当然リーチも広くなる(間違っていけないのは、つながりが狭い人は魅力がないというわけではないということ。一つのことを専門的に極めている人には、そこにしかない魅力がある。ただ、今はそういうタイプの人が相対的に減っているというだけの話で、なぜかというとビジネスで考えたときにそういうのってコストパフォーマンスが悪いから)。


軸をもって層を行き来する

 ヨコというからには層が分かれていて、それは階層のように上下を持ったものではなくただ性質の違いというだけなんだけど、今後大事なのはこの「層」をどれだけたくさん行き来できる人になるかっていうことな気がする。なんていうか高層ビルの各階をエレベーターで移動するっていうよりは、ものすごく広い平屋にいくつも会議室があって、その会議室同士をどれだけ自由に行ったり来たり出来ているかっていう感じのイメージ。

 よりありふれた言葉で言うなら、専門外の分野もまんべんなく学んで色んな人と交流しましょうっていう話だけど、それをするためには自分の軸を持っていないと話にならない会議室に入ったときに真っ先に聞かれるのって、あなたどこの部署ですかっていう話だったりするから。営業です!とか、事務です!と胸を張って即答できるかどうかがものすごく大事。いろいろかじってますみたいな人は、会議室には入れてもらえても、会話には入れなかったりするので。というか、会話に入れてもらえないんじゃなくて、自分に軸がないとそういう会話には入っていけないっていうほうが近いかな。


noteとTwitterでフォロワーの「数」が偏る現象

 こういうことを言うと、「今はつながる時代だ!」と、ヨコのつながりをタテ方向に猛プッシュする人がたまにいるけど、言うまでもなくそれは本末転倒なので気をつけましょう。

 応用して考えられる例として、noteとTwitterのフォロワー数のバランス問題があります。どちらか片方のフォロワーが極端に多いor少ない人というのは、つながり方が外からどう見えているか、に原因があると思われます。noteの成功例をTwitterに輸出するみたいなことを考えている人はフォロワー数が偏る傾向にあるようです。やっていることは同じでもスタンスが輸入だと相乗効果を生むみたいです。長くなったので、この話は気が向いたら。そういうモードに入ったらまたいずれ書きます。


 ちなみに僕はフォロワー数などの数字をどのように見ているかっていう話は下記リンクにまとまっています。今日の話題とは少しアングルが違いますが、もし興味があったら覗いてみてください。


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