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「節分」について本気で語りました【エッセイ・弦人茫洋2021年2月号】

 

「節目」という考え方がある。これは物事の境目を意味する言葉で、「けじめ」や「区切り」に近い意味で使われることも多い。代表的なものが「二十四節気」。「立春」とか、「夏至」とか、いわゆる季節の変わり目のこと。よく「暦の上では春」なんて言い方しますね。それです。暦の上で春が訪れる日を「立春」と言うそうですが、その前日がいわゆる「節分」。例年2月3日が節分として知られていますが、今年は暦の関係で節分の日にちが2月2日にズレるとされ、話題になってます。つまり明日が節分ということですね。これを書いている時点ではまだ実家の玄関に正月飾りが残っているほど思いっきり1月なので、なんとも実感の湧かない話ではあるんだけど。

 それにしても人間という生き物は、区切りや節目をずいぶん大切にする生き物である。それもそのはずか。本来、時間というのは連続的なものであって、絶えず流れていくものなのだから。デジタル時計はバチっと2020を2021に進めるが、ほんとうの時間はそんな切り替わり方はしない。もっとヌルッと変わるものです。そりゃ、23:59:59から1秒経てば、0:00:00になるが、その1秒の経ち方ってどんなものか考えたことありますか?陸上の世界じゃ0.1秒が記録を左右する壁になるし、音楽では0.01秒の単位までこだわることもある。音楽家としては、1秒もズレたら引退もんです。1秒は長い。

 ところが、先で見たような23:59:59から0:00:00への間の1秒を長いと言う人は、あまり多くないでしょう。

 これは、時間が連続的だからこそ起こり得る現象なわけであって、デジタル時計の世界だったらそこに間がないので差はありません。AがBに変わるというだけなので、その間に時間は存在しないということになります。ところが、間に時間が存在しないのであれば、23:59:59と0:00:00の間はどんどん細分化されて、いつしか感じられないくらい短くなって、その1秒は成立しなくなる。1秒が成立しないのであれば1分を数えることは出来ないし、1分が存在しない世界に1時間という単位もなくなる。「時間は非連続的なものである」と仮定すると、時間は成立しないということになるので、時間は連続的なものなのです。

 先人たちが暦を発明してくれたおかげで、現代の僕たちは今書いたような面倒臭いことで頭を悩ませなくてもよくなってるので、感謝しないといけませんね。それなのに、その面倒くさい話題をわざわざ持ち出して皆さんの頭を悩ませてしまったことは素直に謝りたいけど、僕もそれなりに頭を悩ませながらこれを書いたので、そこはお相子ってことにしてもいいでしょうか。


 区切りは、なにも暦の上にしかないものではない。時間の中にしか存在しないものでもない。もっと身近にたくさんあるものです。

 この記事が出る頃には完成しているはずだけど、今、依頼を頂いた編曲の作業に取り掛かっている。これを書いている時点では作業の真っ最中なわけですが、音楽において「区切り」はわかりやすい喩えとして考えられる。そもそも「メロディに様々な楽器の演奏をつけ、パッケージとして曲を演奏できる状態にする」というのが「編曲」の辞書的な定義ですが、イマドキはスマホやPCの打ち込みで楽器の音なんて簡単に入れられてしまうので、上記で言うような編曲はほとんどの人が無意識にやってる。それを踏まえると、現代的な編曲という行為は「アレンジ」に近い。完成形のイメージに近づけるという意味でのアレンジに近い気がします。少なくとも僕はそういう認識で取り組んでいるのだけど、アレンジにおいて重要なのはアイデアです。発想がなければ何も生み出すことはできません。
 ところが厄介なことに、アイデアというのはあればいいってもんでもないのです。作業や打ち合わせを進めていくうちに、「もっとこうしたい」とか「こんなアプローチはどうだろう」など、アイデアは尽きないものだし、それがあっという間に枯渇してしまうようではクリエイターを名乗ることは出来ません。とはいえ、です。無尽蔵に出てくることが必ずしも正解ではなく、どこかで必ずOKラインを作って区切らないといけない。まぁ、当たり前のことですよね。無尽蔵のアイデアに沿って手直しばかりしていては、永遠に曲は完成しませんからね。たとえ更に良くなる可能性があるとしても、区切らなければ完成しません。少し違う意味だけれども、英語で言うところの「Done is better than perfect.」。感覚としては、そんな格言にも近いですよね。

 似たようなことは、人間関係においても当てはまります。恋愛でも友人でも、人間関係というのは一定の期間より長くなると必ず一度飽和します。誠意とリスペクトを持ち、きちんと向き合っている関係であれば、その飽和は絶対にやってきます。飽和しない場合それは例外なのではなく距離が縮まっていないということです。よくミクロ経済学で習いますが「限界効用逓減の法則」。初めての経験から得られる満足度が最も高く、繰り返すにつれ満足度は減っていくというものです。一杯目のビールと、五杯目のビールは美味しさが違うということです。恋愛なんかもそれと似ていて、初めてのデートと、交際10年目のデートは同じようなわけにはいきません。同じであろうはずがないのだから。その過程で、意識的と無意識的とに関わらず一度は飽和を経験するわけですが、その飽和とどのように向き合っていくかで、関係性は変わってきます。単に「あんまり好きじゃないかも。」と心変わりして別れることもあるだろうし、お互いに不満をぶつけあって絆がさらに深まることもあるでしょう。いずれにしても、飽和が一つの「区切り」になっていることは間違いなさそうですね。


 音楽と恋愛と。上記の例で出てきた「区切り」の共通点は、どちらも、前に進むためにあることです。アイデアを出し合っているだけでは曲は完成しないので、前に進むために「区切る」。たとえそれが恋人との別れを意味するのだとしても、「区切る」ことで新たな一歩を踏み出せる。前に進める。ピリオドは文章の終わりというだけではなくて、次の文を紡いでいくための印でもあるわけです。そう考えると、区切りや終わりも、必ずしもネガティブなだけのものでもないという気がします。

 翻って節分。去年の今頃はどうだったでしょう。個人的ですがたまたま昨年の節分に書いたブログ記事があったのでちょっと引用してみます。

これを書いている今日は2/3。
節分です。
皆さんはどう過ごしましたか?
僕は一人で豆まきして、恵方巻も西南西を向いて黙って食べましたよ。
豆まきって言っても、別に、鬼の仮面被ったりしませんよ?
大きい声だって出しません。
独り言より小さいくらいのボリュームで、
「鬼は外」
と、ぼそぼそ呟いて各部屋に一粒ずつ投げ入れる程度です。
形だけ、ってことです。
ちなみに、成田山新勝寺では「鬼は外」とは言わず、
「福は内、福は内」
という掛け声で豆をまくそうです。
僕も詳しくないですが、
「この世は、鬼などいない平和な世界だ!」という考えに基づいたものだそうです。
とはいえ、「渡る世間は鬼ばかり」なんてドラマも流行りましたね。
僕が小学生のころ、ワタオニ、と省略されて、おばさんたちがみんな見てました。
友達の家でゲームをしていたら、その子の母親が、
「ワタオニの時間だからテレビ貸しなさい!」と怒鳴ってきて
セーブもできずに強制終了食らったことがあります。
その時、
「本当だ。渡る世間は鬼ばかりだな。現に目の前にいるよ、鬼が」
なんて思ったものです。

豆は「歳の数+1個」食べるそうです。
そういや節分時期の煎り豆って、節分以外の時期は見かけませんね。
夏場とかどうしてるんでしょう!
僕は筋トレをするので、よく食品の栄養成分表示をチェックする習慣があるのですが、
今日買った煎り豆は、一袋当たり
炭水化物 21.2g
脂質 13.2g
タンパク質 22.9g
でした。
トレーニーの意見としては、結構いいじゃん?!、これ、という感じです。
一袋100円ちょいだったので、毎日食べても一か月3000円です。
それなら節分以外の時期も俺は全然毎日たべるよー。
29個の豆をポリポリ食べながら、そんなことを、とりとめもなく考えて。
先ほど、豆は「歳の数+1」食べると書いたのですが、
正確には「満年齢(数え年)+1」なのだとか。
これは、年末生まれのあるあるだと思うのですが、
僕は1992年生まれなので、現在、数え年で「28歳」です。
ところが、年末生まれなので、27歳になってまだ1か月ほどしか経っていません。
食べる豆の個数は、「満年齢+1」個、ですから、
僕は今年29個食べたわけですけど、
感覚的にまだ全然27歳としてフレッシュなので、一気に2歳、老いた気になります。
来年は30個ですよね。
20代と30代の壁ってよく表現されますけど、その壁ってどんなでしたか?
豆一粒よりもやっぱり大きかったですか?
先輩方、教えてください!

社会的に言ったら、28歳なんてまだまだケツの青いクソガキだと思うんですけど、
後輩とか、自分より若い子と飲んでいると、
自分も歳をとったものだと感じることがたまにあります。
「俺が若いころは」的な発言だけはしないように心がけているのですが、
アドバイスだの相談に乗るだのを、やたらしている気がする。
そういうのって、自分も入社一年目くらいのときに散々迷惑したから、
うざいのは知っているんですけど、
うざがられる側になってしまったことに絶望を感じる。
(もちろん、ここでいう「うざがられる側」というのは立場上の話であって、本当に後輩たちがうざがっているかどうか、真偽のほどは定かではない。俺にできるのはせめて、うざがられてないことを祈ることくらいしかないが)
一方で、そういう席での自分の気持ちって、
何か少しでも役に立つことがあれば、という、老婆心みたいなものもあって、
そういう感情が芽生えたことで初めて、入社一年目の時、懇々とアドバイスをしてくれた上司をうざいと感じてしまった自分を恥じたり、
「ああ、あの上司はもしかしたら本当に俺のこと思ってくれてた可能性もあるんだな」って、素直に思えたりした。

若い子は酒を飲まない。
はしご酒なんて、俺にとっては空が青いのと同じくらい当たり前のことなのですが、
2軒目に誘っても、来ないですね。
それは好みですから批判してるわけじゃないですけど、
もうちょっと飲もう、という提案が却下されてトボトボと駅へ向かう自分を俯瞰で見ると、
すごくオッサンになったなと思ってしまうのです。
無駄にアツいんですね、きっと。
「若い熱さが溢れ出るような日は、キンキンのハイボールで少し冷まそう」
と伊集院静さんは仰っています。
結局、酒かよーー!

寡黙が常にカッコいいというものでもないと思いますが、
「黙ってギター弾いてればカッコいいのに」と数えきれないくらいため息を吐かれてきているので、
年齢に見合った飲み方を会得したいものですね。
若さを保つよりも、魅力的に老いるほうが遥かに難しい、
誰かがそんなこと言ってた気がする。

(2020年2月4日付『J-Studio』より引用) 


 今こうして振り返って読んでみると、ずいぶん平和な世界だったんだなって実感します。
 一年もあれば、世の中なんて簡単に変わる。今年ほど「福は内」に気持ちが入る節分も、そうそうないでしょう。鬼は外にいてもらうだけじゃなくて、できれば誰かに一掃してほしい。そんな中、大ヒットしたのが鬼退治の漫画。映画の中だけじゃなく現実世界でも煉獄さんみたいな人が皆を救ってくれたらいいのに、、、そんな思いを持ちつつも、自分たちにできることは鬼退治じゃなくて自らの身を守ること。ディフェンスしかできない。

 先ほど引用した記事に、後輩を二軒目に誘っても来てくれないと嘆いている悲しすぎる一節がありますが、これは当時組んでいたバンドのリハーサル後に後輩たちに誘われて居酒屋で飲んでいた時のことを書いたのだと思います。チェーンの居酒屋で、長机にみんなで所狭しと座って。まぁ、よくある打ち上げ風景でしたけど、下手したらそれを経験することはもう二度とないかもしれないなんて、そんなことを思う日が来ようとは、一年前は思いもよらなかった。何かにつけては酒、とよく飲み歩いていたけど、そこには(酒そのものが好きなのもあるがどちらかというと)人とのつながりやコミュニケーションを求める自分がいたことが痛いほどわかる。今更。世の中的なものだけでなく、自分自身の置かれている状況も、当然ながら一年前は全く想像できていなかった。

 思うに、これらもすべて大きな意味では「区切り」と言えるわけです。

 今の自分があるのも、要所要所で色々なことに区切りをつけてきたからこそ。そりゃ楽なことではないしできれば避けたい苦しいものだけど、だからと言って何もせずボケーっと過ごしていたら、冗談じゃなく今頃その辺で野垂れ死んでいたと思うとぞっとするゼ。じゃあ、今の生活が全く何ひとつ不自由のない完璧なものかと言うと全然そんなことはないし、目標にも近づいていなければシビアな状況であることには間違いないのだけど、ここでも再び思い出すのが「Done is better than perfect.」。100点満点の生活とは程遠いけれど、なにはなくとも生活が出来ているだけで有難い話なわけです。そしてそれは、自分がこれまでに、色々なことに区切りをつけてきたおかげでもある。


 僕の場合は、たまたま世の中の情勢と、自分の人生と、タイミング的に転機が重なったということだけど、いずれにしても去年が一つの大きな区切りになったことは間違いなく。そんな中、間もなく迎える節分は124年ぶりの日にち違い。重苦しい世の中が、厳しすぎる現実が、せめてこれ以上悪くならないよう、そういう意味での「区切り」になるよう、そんな思いを込めて豆をまく節分を、僕は過ごそうと思っています。



ジュンペイ


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