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銃口の先に待つもの


 僕たちは何と戦っているのだろう。

 あるいは誰と?

 ウイルスと戦っている。これは一番わかりやすい一つの答えのように思える。
 で、どうやって戦っている?目に見えないウイルスと。まさか銃や剣で武装するわけもなく。
 
 ウォーキングデッドはわかりやすい。ウイルス自体は目の前にいて正面から襲ってくるが、噛まれさえしなければいいのだから、まだ戦いようがある。目に見えないウイルスと戦うなんてのはそれに比べたら何倍も厄介な話で、僕らは、あるいは手洗いうがいで、あるいは手指消毒で、あるいは自粛生活をすることで、なんとかウイルスと戦ってきた。それでも、やっつけたかどうか目に見えない以上、その戦いに果たして本当に終わりがやってくるものなのかどうか。不安にもなるさ、そりゃ。

 とはいえ、戦っている相手がウイルスだけなら、世界がここまで混乱することはなかったのではないだろうか。目に見えないのはウイルスだけに限った話じゃなく、人の想いやデマ、誹謗中傷、政治に対する不信感なんてものもある。目に見えないものはそれぞれ沢山あるのに、それが生み出されたきっかけがウイルスだから、皆ウイルスの話として一括りに考えてしまう。感染予防の方法論と、政府の対応とは、当たり前だが別々に議論しなければいけないものだ。それがごっちゃになっているのは、身を守るために銃を構えた以上は何か的が欲しいというような状態に似ている。もはや的が何であろうと、的でさえあってくれれば何でもいいと。これほど的外れな状況が他にあるか?と思う。都合よく的にされるほうは、たまったもんじゃないよ、本当。何も悪いことしてないのに。やってられません


「不要不急」という言葉、これもすごく引っ掛かる。


 本来、不要不急なものなど世の中にない。菅首相や小池都知事の言いかたを見ていると、「命に直接的に関わらないこと」というような意味で使われているようだ。
 屁理屈かもしれないが、世の中には命に直接的に関わらないことのほうが圧倒的に少ない。未だにやり玉に挙げられる音楽業界やライブハウスの営業にしたってそうだ。音楽に限らず広く芸能と言ってもいい。あるいは娯楽。長いこと飲まず食わずを続けたらヒトは死ぬが、それと同じように、長期間娯楽に触れなければ人間は死ぬ。ヒトとしては生きて居られても人間としては生きて居続けることが出来ない。感情の代弁者であり、共感の場であり、つながりを実感するコミュニティである娯楽が、「不要不急」であろうはずがない。ましてこれだけ世の中が荒んで混乱している状況下にあっては尚更だろう。少なくとも僕にとってはそうだ。音楽がなくては生きていけない。「不要不急」という言葉は人々の生活に優先順位をもたらし、自ら取捨選択するように迫るのだから、乱暴な言いかたをすると、とんでもなく大きなお世話ってことになる。


 緊急事態宣言が再発される運びとなり、大きな話題になっている。前回ほどの効果は見込めないとか、対応が遅いとか、批判も沢山ある。じゃあ、政府に何を求める?って話だ。僕たちは誰と戦っているんだっけ。政府と戦ってたんだっけ?本当に?

 誰も経験したことがない状況に対して政府にリーダーシップを求めるのは違和感がある。それと同じくらい、黙って淡々と対応を進める政府の姿勢にも文句はある。どうしていいかわからないのは僕たちが政治の素人だからじゃない。パンデミックが人類にとって未知の状況だからであって、政治家としての経験や手腕が必ずしもうまく発揮されるとは限らないからだ。そんなこと、考えるまでも無く明らかなことなのに、一方的に自粛をお願いしたいとか言われても受け入れられないのは当たり前のことだと思う。ましてそんな状況が1年近くも続いてストレスも溜まっている中、せめて年末年始くらいは出かけたいと思った人々の気持ちを、僕は否定できない。


 政治と国民に距離感を感じる。もっと素直になって、政府としても初めての経験だからどうしたらいいかわからないって言ってもらってもいいような気がする。それを批判できる人は本来、いないはずなのだから。

 最終的に「国」も「政府」もただの概念でしかなく、実際に存在するのは「人」だ。ウイルスも目に見えないかもしれないが、人の想いや希望のようなものも、同じように目に見えない。目に見えない未知のウイルスを怖がるよりは、まだ見ぬ明日に賭ける生き方のほうが僕は好きだ。いくらか天秤にかけざるを得ない状況は避けられないとしても、その中で自分の「やりたいこと」や「やるべきこと」を、どうすればやっていけるか、向き合い続けるしかない。だからといって何の考えも無くほっつき歩いてもいいってことにはならないが、言われたままのことを甘んじて受け入れているだけでは、ただ貴重な時間を無駄に失って終わるだけだと思ってる。



ジュンペイ

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追記

 目に見えないものの恐怖、ということで思い出したのが、心療内科にかかったときのこと。話の軸がぶれるので詳細は割愛するが、何年か前、こころが疲れ果てて会社を休職したことがある。

 当時の診断は「鬱病の一歩手前」とのことだった。「まだ鬱病とは言えないけど、このまま放っておいたら確実に鬱病になります」という意味だったらしく。何とも釈然としない診断だった。鬱病じゃないのに、なぜ抗うつ薬で治療する必要があるのだろう?ただの鼻風邪でタミフル打つか?もやもやしながらも、結局、その同じ診断のまま、ずいぶん長いこと休職した。

 あとでわかったことだけれど、当時の僕に付けられていた診断は「抑うつ状態」というものだったが、これは病名ではなく、ただ気分が落ち込んでいる状態を表すだけのものだそう。つまり本来は「抑うつ状態」として診断書が発行されることはなく、抑うつ状態に至った原因を探ることが心療内科の果たすべき役割であるということを、担当の医師が説明してくれた。結果的に、僕の場合は「適応障害」ということだったけれど、長いこと正体のわからない診断に苦しまされていた僕にとって、診断がついたこと自体がすごく有難い出来事だった。ちなみに適応障害も一種の性格のようなもので、治療が必要な病気ということではないそうなのでご安心を。

 とにかく、なんだかよくわからないっていうのは相当に恐怖でありストレスであると。疑心暗鬼で攻撃的にもなる。今回の場合は、ウイルスの正体はわかっているので、むしろ恐怖すべきは何考えてんのかわからない人間の心っていうことになるね。それでも僕は不器用なので、目の前の誰かが発した言葉をその額面通りに受け取って信じることしかできないのだけど、そんな生き方に誇りを持ってもいる。



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