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苦い話と甘い蜜

耳を立てれば聞こえて来る、どっかの誰かの不幸話。

意図してそういった情報ばかり聞いているつもりは毛頭ないが、雑音として流すには惜しいと思う。人の痛みは自分の癒しとして機能する側面があるから、きっとそういう人間的な、本能的な何かのせいだと思う。そして、そうやって理由を付けて納得している人は私以外にもいると、そう願っている。

心から信頼していた人に裏切られた、つまりは恋人に浮気された。そう零して悲しみを露わにする友人にかける言葉は如何ほどか。「それは向こうが悪いね」と、相手を攻撃するような思考を代弁するべきか、はたまた「辛かったよね」と、傷ついた心に同情し一緒に悲しむべきか。
「ちょっと重い話になっちゃうんだけど…」と言う前置きから始まったドキュメンタリーは案外長く、やがてアイス珈琲のグラスが結露し始めた頃、会話における1ターン目が終わった。
さて、友人を救う方法は意図して無数に浮かぶ一方で、私は確かに喜びを感じ取っていた。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。死んでしまいそうなほど辛い気持ちを心から理解する度に喜びの甘みが増していく。それは涙が出そうなほど辛いのに、勝手に口角が上がっていくような、心と体が乖離していく心地。しかし不快ではない。
「そうだったんだ…。そのあと、相手から連絡はあった?」
記憶の鮮度を保たさせるような、質問ばかりが浮かぶ。悪意は無い、しかしこの質問のため辛い記憶を辿らせている事は事実。会話を通して貴方を傷つけているのでは、と思う反面。一度全部吐き出させた方がスッキリする筈と貴方を想っているのも確か。まるで自分が自分じゃないように思う、結局はそう、自己の否定に走る。人よりも少しだけ優しい人間であるという自己暗示を守るために、円滑な人間関係を守るために、舌なめずりして不幸を待つ卑しい感情に蓋をする。

”少しだけ嫉妬していました。恋人がいる貴方に。”

心の中で本音を零せばふと軽くなる心。あれやこれやと知的ぶって複雑に考えても結局はそういう事だ。単純な嫉妬に勝る動機はなく、ただそれだけの話。大切な友人であることは確かならが、同じ性別の同年代として見方を変えた途端に湧き出るそれは妬みの種。
「それが、その後も大変だったの」
客の流れが落ち着き始めた店内。他人の不幸という甘い蜜を供に、珈琲を楽しんだ。