蝉の、命を削った合唱が無意識の領域を侵す。思考がまとまらないのは、暑さのせいだけではない。赤いTシャツの下で右の脇腹から腰にかけて汗が伝う。じっとりと蒸し暑い己の体に風を送るべく右手で胸元の布をつかみ、ふいごの如く風を送った。

この時期はやはり暑い。特に今日のような快晴は太陽が猛威を振るうので水分補給は欠かせない。私は自販機で飲み物を買う時、必ずおつりが出ないように買う。今回は150円の炭酸飲料を購入した。やはり炭酸飲料は冷たい状態で飲む方が美味しい、これに関して異論を唱える者は少ないだろう。故に炎天下、目的地に着くまでの間に飲み干さなければ歩いている間にぬるくなってしまう。しかし、そのことを考えない私ではない。目的地はまさに次の信号を渡った先であり、現在は到着予定時刻の1分前である。ズボンの左ポケットから花柄のハンカチを取り出し額から顔全体、首へと汗を拭く。車やバイクが緩やかに速度を落としやがて停止した。歩行するシルエットがエメラルドグリーンに照らされると止まっていた人々が歩き出す。その波の中に私はいる。横断歩道の白い線だけを踏んで歩くことはさすがにしないが、そういったことを一瞬考えてしまった、ということは未だに童心を忘れていないという証拠だ。

建物の影に踏み入り、ハンカチを仕舞う。改めて一歩を踏み出したとき「ぐしゃり」とも「かしゃり」とも言えないような絶妙な音が足元から鳴った。…まったく勘弁してほしい。新調したばかりの靴で踏みしめた地面には先ほどから私の無意識を刺激する一匹が伸びていた。この時、人は不快感と罪悪感どちらを優先すべきだろうか。とっくに死んでいたのならば前者だが、もしもこの蝉がまだ生きていたのならば後者だろう。自らの手で(この場合は右足でだが)生き物の命を奪ってしまったのだから。たかが蝉に、と思うかもしれない。確かに蝉を踏むことは、この季節ならば稀に起こることだろう。それを不快感、たった一つの感情と眉間に寄せたしわのみで済ます方が、私からしたら残酷に思うのだ。この「残酷」とは生き物を踏みつけることに対してではなく、こういった感情が動く瞬間を大事にしないことに対して、だ。一つの事象にどれほど多く感想を述べられるか、そして楽しめるか。それが私のモットーなのだ。

「カラン」

再び、人の波が動いた時、どこかで空き缶を蹴った音がした。ふと意識を戻す。左手首の時計が到着予定時刻を数秒過ぎたことを知らせる。だが実の所、遅刻したところで迷惑をかける相手はいない。目的の場所に時間通りに到着できるかを試していただけである。自分で自分をコントロールすること、これが意外に難しい。

ズボンの右のポケットから手帳とボールペンを出し、徒歩で自宅から駅までにかかった時間を記録する。小脇に挟んだペットボトルの、表面についた水滴がTシャツに染みをつくる。記録に夢中になり、体温で炭酸飲料を温めてしまう前に飲み干すべきだろう。手帳とペンを右手にまとめつつ、残り少ないペットボトルの中身を飲み干す。先ほど空き缶の音が鳴った方向に向かえば案の定、自動販売機があった。すると傍にペットボトルを捨てるゴミ箱があるので空になったペットボトルを捨てる。空き缶の音が鳴ったという事象から近くに自動販売機があるという予想、そこから更にペットボトルを捨てるゴミ箱が設置されているだろうという推理。まるで探偵にでもなったかのような心地よさがある。探偵気分をそのままに、落書きやステッカーで汚れた自動販売機や道行く人の雰囲気、時間を手帳に書き込んだ。一通り書き終えた後、ボールペンの後ろを三回ノックし手帳もろとも右のポケットにしまう。折角駅まで歩いてきたのだから、少し探索でもしようか。

涼しげな音楽が耳に楽しい。だが繰り返し流される曲が鬱陶しい。店を横切るたびに漏れてくる冷風が心地よい。同時に、冷えた汗が服と肌を密着させる、その感触が不快である。最近話題のスイーツの香りが食欲を唆る。しかし、そのスイーツを求める長蛇の列に食欲を削がれる。太陽が街を照らす、その街が道に影を作っている。蝉の合唱が街を覆い、何処かで蝉を踏みつぶす。

音がした。