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6.旅人と家/ロバート・ハリス、家を建てる。

 家を建て替えようと決めてからそのことを人に話すと、「えっ?旅人のハリスさんが家を建てるんですか?. . . 」みたいなコメントがかなりの確率で返ってくる。

 ぼくはその度に、「おいおい、旅人だって家を建てる夢はあるよ」とか、「なんだよ、旅人が家を建てちゃいけないのかよ」といった言葉を返しているのだが、彼らが言わんとしていることは分かる。旅人というものにはどうしても「定着しない人」、「旅を続けていく人」という意味合いが付いて回るからだ。

 確かにぼくは幼い頃「いつか、親父のように、”いい家だよな〜”と思えるような家を建てたい」と思ったことはあったけど、高校を卒業する頃にはそんな夢のことはすっかり忘れ、ただただ「旅をしたい」という思いで胸がいっぱいだった。

 高校を卒業してすぐに海を渡り、ロシア、北欧、ヨーロッパ、中東、インドと旅をしたぼくは、最後に立ち寄ったコルコタの街でこれからの人生で達成したい100の夢のリストを書き上げた。この中には旅や執筆に関連する項目は色々とあったが、こと住居に関してはたいしたことは書いていない。

 No.16 アフガニスタンのカブールで暮らす。 No.27パリのサン=ジェルマン・デ・プレの安アパートに住んで、ぼくなりの『移動祝祭日』を書く。 No.82 ニューヨークのグリニッチヴィレッジのボロアパートでボヘミアンな生活を送る。 

 こんな感じである。No.50 に「自分の家を持つ」というのが一応あるが、まあ、いつかは自分の家ぐらいは持ちたいな、と思って書いただけのもので、強い思いを込めたものではない。

 ぼくはその後、大学を卒業するとともに放浪の旅に出て、東南アジアを旅した後、バリ島に1年滞在し、その後オーストラリアのシドニーで16年暮らすことになるのだが、住居へのこだわりというものは長い間、持つことはなかった。

 バリ島では山間の村、ウブドのロスメン(民宿)に3ヶ月ほど滞在した後、近くのチャンプアンという川沿いの渓谷に家を借りて暮らした。家は田んぼの奥にある、比較的質素な作りのコテージで、ベッドルームと客間とバス、トイレ、キッチンとあったが、料理は全て管理人のおじさんが作ってくれた。彼は料理の達人で、ディナーにはトラディショナルなバリニーズ料理からパダン料理、中華、洋食とメニューも豊富で、ここへはよく、町で友達になった旅人たちを招待して食事会をやったりした。このコテージの一番の魅力は小さなプールが付いていたことで、朝、昼、晩と、気が向いたときにプールに飛び込んではバシャバシャと涼を取った。

 オーストラリアのシドニーに落ち着いてからは実に様々なところで暮らした。ちゃんと数えたことはないが、シドニーにいた16年の間に20回以上は引越しをしたのではないかと思う。理由はまちまちで、仕事のための移動だったり、妻、または付き合っていた女性との離別だったり、生活様式や環境をリセットする為だったり。

 住居のタイプも色々で、シェアハウスだったり、マンションだったり、一軒家だったり、コテージだったり。一年ほど、4人の女性とぼくの5人でハーバーブリッジ近くの住宅地にあった大きな屋敷を借りて共同生活をしたことがあるが、これはなかなか楽しいシェアハウス体験だった。女性たちが毎晩、美味しい料理を作ってくれて、料理の下手なぼくは皿洗いと庭の手入れの担当となった。食後はリビングに集まり、一緒にビデオを観たり、音楽をかけて踊ったりした。ここでの最後の方には女子の一人のボーイフレンドがニュージーランドからやってきて住むことになったが、これが後に映画『ジュラシックパーク』の主役を演じるサム・ニールだった。

 シドニーのダウンタウンでブックショップと画廊を経営していたときは、店の上の3階にあった4畳ほどの収納スペースを自分のベッドルームにリフォームし、ここに毎晩のように友達を呼んでは音楽を聴いたり、誰かの歌や詩の朗読に聴き入ったりと、まさに、ボヘミアンなサロンのようなところになった。この部屋の横には屋上のベランダがあり、夜になるとキラキラと光るシドニーの夜景がとても綺麗だった。ある晩、ビート詩人のゲーリー・スナイダーが泊まりにきて、ベランダの縁に寄りかかり、シドニーの夜景をぼくと一緒に眺めた。彼はぼくの大学時代のヒーローだったので、このときは本当に嬉しかった。

 ブックショップを畳み、テレビ局で日本映画の字幕翻訳家として働き始めた頃、オージーの友人と二人でシドニー最大の繁華街、キングスクロスにある古いマンションのペントハウスを借りて暮らした。ここは大金持ちのお妾さんが所有していたペントハウスで(彼女は「KEPT」(囲われ者)というナンバーの付いたピンクのロールスロイスに乗っていた)、中は全て、それこそ床から壁から天井から家具からバスルームから便器から冷蔵庫から本棚からカーペットから壁に飾られた絵画からキッチンのお皿一つひとつまで、全て赤で統一されていた。ここではしょっちゅう友達を呼んでは飲み会をやったり、ポーカーやバックギャモンのゲームに熱を上げた。

 ぼくが初めて自分の家が欲しいと真剣に思うようになったのは、2番目の妻のオンディーヌが妊娠したときだ。ぼくは当時、テレビ映画の制作に携わる傍ら、ポーカー・プレイヤーとして生計を立てていたのだが、そろそろちゃんとした家を持って、もっとまともなレギュラーの仕事に付かないといけないな、と思っていた。そんなとき、家の話がふっと目の前に提示されたのだ。

ぼくが関わっていたテレビ映画の監督の一人は、後に『今そこにある危機』や『ボーンコレクター』、『ソルト』などの作品で有名になるフィリップ・ノイスだった。ぼくたちは仲良しになり、キングスクロスの近くにあった彼の4階建てのテラスハウスによく遊びに行っていたのだが、ある日、この家を買わないか、と彼が言ってきた。「この家も、このエリアもとても気に入っているんだけど、向かいにあるもっと大きなテラスハウスに移り住もうと思っているんだ」、と彼は言った。

 テラスハウスとは、ヴィクトリア時代のイギリスで流行った建築様式で、両隣の同じような形の家々と壁が繋がった作りになったもの。アメリカではタウンハウスと呼ばれ、サンフランシスコのダウンタウンなどでよく見かけるコロニアルスタイルの建物である。

フィリップの家は身長2メートル、体重100kgの彼にふさわしい、まるで巨人の住処のような、全てがデカくて広いところだった。ガラス戸に囲まれた、大きな中庭。天井高2m80ある、広いリビング/ダイニング/キッチン。そこからまた階段を上がっていくと、ゆったりとした主寝室とバスルームとトイレがあり、バスタブはフィリップが足を伸ばしてゆっくりと湯につかれる大きさのものだった。主寝室の裏のドアからは3階の大きな木製のベランダに出られ、ベランダの先からは裏の北側の道路を見下ろすことができた。主寝室からまた階段を上がっていくと、本棚がしつらえられた広いロフトがあった。はっきりと測ったわけではないが、家の面積は少なくとも300平米はあったのではないだろうかと思う。

この大きくて魅力的な家をフィリップはとてもリーズナブルな価格でぼくに売りたいと言う。当時のぼくは赤いペントハウスを出て、オンディーヌと彼女の弟のフェロウ(年は18歳だが、身長は190cmあった)と共にシドニー湾に面した小さな3LDKのマンションに住んでいた。オンディーヌは妊娠3ヶ月。家に帰って彼女と相談したが、答えは5分で出た。

ぼくはその晩にはフィリップに電話を入れ、家を買う旨を伝えた。
”旅人”がハウスオーナーになろうと決めた瞬間である。


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