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057「谷底」

 ツキノワグマを追う、数人の男が、知らず知らずのうちに、歳月を追いかける。彫像のように彫りのふかい顔を黒く塗りつぶし、男のひとりが、ふいに、時の崖から滑落する。


 崖のしたで、男は、たえだえの命をかすかにくすぶらせ、すこしずつ、激痛はうすれてゆく。ゆがんだ男の横たわる谷底に、細い川はながれ、いくつかのせせらぎと交差しながら街に流れこんでいる。整備された土手のうえで、数人の少年に、ひとりの老人が殺される。老人はかつては製薬会社の社長であったが、自分が社長に向いていると感じたことは一度もない。実際に、彼が社長に就任してから、社の業績の成長はなかった。ただ、薬学の知識には、多少、秀でていた。彼は、川原で煙草をくわえながら、定年して何年になっただろうかと、ぼんやり数えていたところだった。軽々と、金属バットは振られ、少年は、悪人を裁く権利をもった英雄になった気分でいる。周囲の少年たちは逃げだし、バットを持った少年は、臆病者たちを裁くために、笑いながら走りだす。


 少年が、警察署の前を駆けぬける。少年は、16年後に、警察官となり、それでも、金属バットが英雄の力を有しているとおもいつづけている。大人になった少年は、ある夏の夕暮れに、瓜ふたつの顔をした男に、金属バットで殴られて殺される。少年が死ぬことで、少年の妻は、殺される不安から解放される。妻は、谷底に落ちた男の娘で、父の存在を知らない。娘はピアノを習う。大きな手は10個はなれた白鍵を同時に押しこむことができる。悲しげなメロディが、葬儀を終えた妻の手から紡がれている。夫の死を悲しまなければならないことに疲れたとき、ふいに、自分の父親は死んだのだ、とおもう。メロディを繰りかえしながら、理解しがたく、つぎつぎに涙がこぼれることを、すこし屈辱的に感じる。

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