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012「泥」

 竜血樹のまわりで、泥が撒かれる。ところにより、均一でなめらかな部分も、盛り上がって山になる部分も、泥が撒かれずに、もとの草地が見えている部分もある。祈りとともに血の樹液が流れ、泥はゆっくりと、子供の肉体に変化してゆく。島が、巨大な一枚の皿であり、誰かの食事が、ここで準備されていることを知り、戦慄したものは、数匹の獣しかいなかったのだ。


 西陣織の着物を着た女が、泥の子らを連れて赤い船に乗りこんでゆく。漁船ばかりの港に、赤い船は悪夢のように浮かんでいる。あらゆる住人は、船を不在のものとして扱わなければならない。日が暮れかかる。一匹の黒い犬が泥のあった場所を見つめている。乾いてほとんど荒地となった竜血樹の足元に、バタイユの「眼球譚」が落ちている。誰も、そのことを知らない。漁師ばかりが住むたった一つの土壁の集落で、漁師たちは、はげしく、妻を抱いている。

 細い脚を引きずり、黒い犬が海岸線の向こうへ消えてゆく。それは取り消すことのできない、卵のような現象である。あるいは彼は、あの赤い船へ、誰かを、助けに行こうとしたのかもしれない。


 アパートのキッチンで、トランペットを吹きならす。助けは、呼ばなければ永遠にやってこないのだ。マウスピースにアンブシュアを整え、必死で息を震わせる。だが、ドアを叩くものはまだいない。ドアノブには、新聞がかかったままになっている。人々が、次々に泥に変化している。泥の中に、まだ眼球や、心臓や、脊椎の形が残っているのを見たというものもいる。ずっと、死んでもいいと思っているのに、なぜ、泥になることは受け入れられないのか、自分でもまだ、わからずにいる。


 世界中の小学校から、泥があふれだす。竜血樹のもとに、次々に泥が運び込まれ、新たな集落がつくられるような勢いだ。西陣織の着物の女は、漁師たちの相手をしたあと、味噌漬けを食べた口臭を消すために、数粒の緑色の錠剤を水で流し込んでいる。

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