086「硝子の子」

 ある硝子職人が、ひどく長引いた梅雨の小屋で、風鈴を作りつづけている。ただれた手で、吹き竿をささえ、彩色するのは、妹にまかせている。安全靴には、落としきれなかった精液がこびりついている。国境沿いの工業地帯に、異様に細い煙が、悪夢のようにのぼりつづけるのを、ひどく、忌みきらう人々がいる。その人々をまた、排除しようとする人々がいて、紛争と工場の対比の写真を撮りにくる写真家はあとをたたない。対立する群衆どうしのなかで、時折、恋に落ちる若者がいて、街を逃げ出すこともある。

 夏のために、風鈴をつくりつづけ、工房に、無数の風鈴が、細胞のようにならび、職人は、日増しにやつれてゆく。土気色の肌のうえに、瞳だけが、爛々とかがやいている。梅雨の晴れ間、妹は、職人が、燃えさかる窯に、手ぬぐいをまいた頭を突きいれ、動かなくなっているのを見つける。妹は、泣きだしたい気分に襲われるが、泣いても、生活が改善したことなど一度もなかったことが、妹の感情をすっかり枯れさせていたので、兄が死んでいることをたしかめ、医者と警察を呼び、やがて、兄の風鈴の彩色作業を再開する。膨大な数の風鈴が、工房にはのこされているので、梅雨が明け、強靭な日差しに、鉄管がゆがみかけるころになっても、彩色は終わらない。最後の出荷がすむと、妹は、1匹の猫を買い、工房を去る。それから、工房に入ったものはいない。

 窯の火が、誰にも知られずに消え、煙は溶けてゆく。煙を憎む人々の争いは、写真を憎むか否かの争いに変化してゆく。皿が割れる音が響く。妹は、あらゆる硝子窓のむこう側から、職人が覗いているような感覚に陥っている。その身は透きとおり、ちいさくふるえながら、じっとこちらを見ているように思える。神話の本のうえで、三毛猫が喉を鳴らしている。妹は、青い顔のまま、皿の破片を片付けてゆく。陣痛に襲われ、台所に嘔吐する。救急車に縛りつけられたまま、妹は製鉄所を左に折れる。ひとりの写真家の死体を、数人の人々が囲んでいるのを、妹は見ることがない。

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