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大阪万博と「多様性」の行方

(本稿は 開催が危ぶまれる大阪万博のテーマともなっている「多様性」の矛盾を、先に成立したLGBT理解増進法と絡めて論じ、2023/11/15に『不動産経済Focus&Research』に発表した論考を、ここに再公表します。)
【前掲写真は議論を呼んでいる万博での木製リング】



「多様性」のパラドクス

 大阪万博の開催が近づくにつれ、その準備の停滞がクローズアップされ、縮小や中止を望む声も大きくなっている。私はこれまで万博を観に行ったことがなく、今回も関心はまるで無いのだが、これに税金が費消されることを思うと感情が少しばかり波立つ。

 そういえば、20年以上前に自宅からテレビを捨てた私が、ある日本人選手がオリンピックで金メダルを取った快挙について問われ、「観ていない」と答えた際に「変人」扱いされたことがあったが、そのときに「皆が同じものを観る」という常識から外れた人間が疎外される理不尽さを感じた。

 同じことで、よく世間では人気のあるアイドルだの、大規模なイベントだの、視聴率の高い番組だのがどうにかなった時に、それらに「国民的」なる形容詞が付されて騒がれるが、それらにトンと興味のない自分は「非国民」に分類されるのか、とつい僻(ひが)んでしまう。

 昨今はテレビを捨てたとか、観ないとかいう同人種が増えているようで小気味良いが、日頃はことさらに「いろいろな人がいてよい」などと強調するクセに、一方で万博や五輪の如き大掛かりなイベントに全国民の関心を駆動させようとする風潮にはウンザリする。

 ましてや、今回の万博には「いのち輝く未来社会」とやらがテーマに掲げられ、それには近ごろやたら目に付く「多様性」もキーワードに含まれていることには、どうしても薄っぺらさを感じてしまう。


「空気」の支配と法治主義

 つい先年の東京五輪でも「皆が同じものを観る」が成り立たぬどころか、期待された経済効果なるものは膨大な不良債権と化しただけなのに、それでもこの種の興行は後を絶たないでいる。

 何故なのか。もちろんそれに絡む利権が政官財に還流することも要因だろうが、私は少し異なる切り口から考えてみたい。

 たとえば、長らく芸能事務所の「性加害問題」が世間を賑わせているが、その糾弾されている人物は、先に成立したLGBT法で理解されるべきとされた同性愛者の典型であろう。しかるに、その当人はすでに故人で、しかも生前に刑法犯として起訴されたわけでもないのに、よってたかって犯罪者扱いにされ、叩かれ続けているのは異様である。もちろん非難されているのは当人の(推定される)犯罪的行為であって、同性愛なる性癖ではない、というのだろう。だが、どう見ても通常の(確定的)性犯罪よりも過度に問題視されているのだから、それならば同性愛者による性加害は厳罰化するなどを検討すればよいのにとも思うが、そのような主張はまるで見受けられない。

 そもそも法律の射程は奈辺にあるのか。たとえば誰しも他人を殺傷したいほど憎む経験はあるだろう。でも、そうした感情を抱き、あるいはそれを言葉として表現するのも(脅迫等にならぬ限りは)「自由」である。ただ、それが殺傷という行為に及んだ場合のみ法律で制限されるまでだ。しかしながら、現実にはメディア主導で醸成される「空気」は、ターゲットとする人物の「自由」を蔑ろにして断罪するが、それは信奉されるコンプライアンスやら法治主義やらを平然と無視している。

 つまり、「多様性」を受容すべしといったテーゼを響きわたらせれば、それは人びとを心地よく撫(な)でる一方で、人びとの思考を停止させ、法律などお構いなしに世論をむしろ「統制」できるので、それを意図する側にとっては甚だ都合がよいのだろう。


パラドクスを超えて

 社会が人びとの「自由」をどこまで制限できるのかは、それを縛るルールを皆の「合意」で定めること、つまりはデモクラシーに掛かっている。

 しかし、人びとの様々な思想信条や価値観をすべて受容する「多様性」が進展すればするほど「合意」は困難な作業となり、メディア等による「空気」が付け込み、世論を支配していく余地が広がる。言い換えれば、国家のみならず、地域や学校、あるいは家庭など、多岐にわたる社会において、他人と「合意」に漕ぎつけていく人びとの「社会をつくる能力」が、より求められるはずなのに、それが実際には摩耗していることが問題なのだ。

 先のLGBT法は、「多様性」に資するかのように見えるかもしれぬが、その実、ヒステリックに叫ばれる「男女平等」の延長線上にあり、表面上の「尊重」に終始することで、かえって「多様性」を阻むこととなろう。すなわち、人間が生物として「有性生殖」を選択するのは、雌雄という異性を掛け合わすことで、より「多様性」を促してウィルス等の外敵から種を守ることに主眼を置くからだ。しかるに、男性と女性を中和、あるいは各々を中性化させてしまえば、人類そのものが危機に瀕しかねない。むしろ男性らしさと女性らしさという性差を際立たせることが「多様性」に繋がる要諦なのに、それとはまるで逆行している。

 これと同様に捉えれば、「多様性」を育み社会を強靭にするには、メディア等の音頭に安易に乗って異論を封じ込むのではなく、社会として何が有益かを自ら考えて提言するのみならず、その社会を慮(おもんばか)った異論に対しては折り合っていく修練を積んでいく以外に道は無いはずだが、それをますます避けるように映る世相に危うさを感じるのである。

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