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虐待や不登校や不眠症や薬物依存の子供がプロ占い師の幸せな男になるまでの話(仮) #3

虐待について言えば、これを読む人には不快な気持ちを与えるかもしれないが
母はキ〇ガイという言葉を俺によくぶつける人だった
通っていたスイミングスクールを初めてサボって遊んで帰ってきた日
母は「あんたどこの子?うちの子じゃないから帰って」と言われた
そして俺に対して話してない時には「コイツ」という三人称を使った
「自分は大事にされていないのだ」と言う実感を持つには十分だった

父は毎夜の様に酒に酔い、幼い俺にうまく伝わらない事、理解させる事ができない憤りとで
どうしても暴力的な態度を取るしかなかった

もちろん親子なのだから父も気性の荒い人間ではあったため理不尽な怒りによる暴力も多く受けた
ある夜、灯りを消して父が寝ている傍らで夜型の俺はふざけて騒いでいた、母はキッチンにいた
急に父親の手が布団の中から伸び、俺の足首を掴み体は宙に浮き
床に向けて体を二度、三度と叩きつけられた

父にしてみれば次の日の仕事に響くから眠りを妨げられたくなかったのだろうが、やり過ぎだ
風邪気味で早く夕食を食べられなかった時などは、ティッシュの箱を顔面に投げつけられ、鼻血を流すと
「免疫が下がってるから鼻血なんて流すんじゃ」と言い放たれたり
幼稚園の時にはダイニングから隣部屋に向かって体を放り投げられ壁にぶつかり
下にあるキャンピングチェアにズルズルと滑り落ち「一回転させる様に投げたのに」と言われたり
まるでボールや玩具のような扱いだった、だが思えばそばに母がいるからこそ出た発言も多かった

人間の男と言う生き物は、近くにパートナーにあたる異性がいるとより攻撃的で
強さを誇示する行動を多く取ってしまうものだと聞いた事がある

そんな風に小学2年生の頃は辛い日常が続いた
家の中に居る時はゲームをして現実逃避による緊張の緩和をしなければ、父が近くにいると言う恐怖に勝てなかった
勉強机の下に布団を敷き、枕やぬいぐるみを置いてまるで巣の様な場所を作り、隠れる様に眠った。

学校は毎日の遅刻、通学路は後ろめたさから大通りを避け、うつむきながら猫背で下を向いて登校した
勉強も徐々について行けなくなった
特に算数はどれだけ頑張っても得意にはならなかった
本来はプライドが高く、負けず嫌いな性格をしていたたため、どんどんと卑屈になった
そんなある日、あまりに宿題が解けない
机に向かってもイライラして頭が熱くなり体を搔きむしってもわからない時
何かが「ブチッ」という音を立てて切れた様な気がした、途端に色んなことがどうでも良くなった
それ以来“悔しい”と言う感情に鈍くなっていった

中学年になる頃にはもう学校ではどの教科もまともに受けるつもりが無くなっていった
担任は40歳ほどの男性の教師に変わった、仮に田辺としておこう
その教師も俺には手を焼いた、その頃にはますますストレスによる自分の反抗的さや凶暴性は増していた
教師の言葉を無視するどころか
図書館で借りたアルセーヌ・ルパンの小説を授業中に担任教師の机に腰掛けながら読んだり
校庭に出てストレスの発散のために下級生・同級生・上級生も関係なく殴りつけ
教室でキレてしまった時などは椅子や机を持ち上げてそれで他の生徒を殴り
音楽室にあった木琴や鉄琴を叩くための楽器の後ろを自動鉛筆削りでとがらせ、それでクラスメイトを刺し
例のミサキを蹴り倒してその長髪を両足で踏みつけて立ち上がれない様にして見下ろして楽しむなど
行動は常軌を逸したものになっていた

あまりに自分の感情がコントロールできず常にイラつき
衝動的な暴力と、それにより叱られる事や後悔する事が多く、危険人物なため皆に怖がられ避けられ
家でも学校でも孤独だった
休憩時間は理科園で動植物を眺めているか、図書室に独りでいる事が多かった
静かに、静かに
心を静かに
平和で楽しいだけでいいんだ、もう感情の起伏に悩まされたくない
色んなことがうるさく、煩わしかった

父にせよ教師にせよ、長い説教が多すぎた
されている間はとりあえず俯いて聞いているふりをして視界に入るものを使って頭の中で想像して遊んだ
それに気づいているであろう大人達の使う言葉も、俺の注意を引くために過激なものになっていった
大谷先生は「あんたは異常よ」父は「次に遅刻したらぶちまわすけえの」母は「キ〇ガイ」など

もし反省をしたとしても
ちゃんと改める“自信”が自分には全くなかった
それは当然のことではあった、大人になってから聞いた話だが
母は「この子は褒めるとテンションが上がって暴れてろくな事をしない、だから私は一切褒めない様にした」と、つまり虐待や理不尽な叱責はいくらか意図的でさえあったのだ

そう、気づけば一度も母に褒められた記憶が無い
幼少期に自身を受容され認められた経験が一度も無い
そんな子供が自信を持つことなどまずあり得ない
母は極端で、非常に愚かな人間だった。

そうして俺は派手で衝動的な事件こそ学校内で起こすものの
対照的に非常に極端で消極的な思考になっていた
行動半径は学校と家のある町とその隣町、せいぜい半径1キロメートル程度しか移動しない子供だった

道に迷うのは面倒で体力の無駄だから出歩かない
100点がとれないならやるだけ無駄だからテストは名前しか書かない
クラスメイトと会話してもつまらないからゲームの話しかしない
話してもどうせ信じてくれないから教師には何も話さない
失敗を恐れ、恥じた
当然だ、失敗すれば酷い罰が待っているのだから。

今でこそ俺は占い師、心理学にも通じているからわかるが
両親の教育のそれはまさにダブルバインドだった
ダブルバインドとは、まず守れない矛盾する二つの命令を出し、守れなければ罰するという洗脳や拷問方法なのだが

まず俺は学校に遅刻するつもりしかなかった、学校が嫌いすぎるため目覚ましをいくつかけても
意識が無いまま止めていて、その時強く叩きすぎて全て破壊してしまっているほど嫌いだった
両親も思索し冷蔵庫に「遅刻した日とちゃんと登校できた日」などをラジオ体操のスタンプの様に可視化したものを張っていた時期もあるが
結局は無駄だった
「千景、もう学校に遅刻して行かないな?」「しない…と思う“けど”」
「“けど”ってなんや!!」
父は初めから強制する気しかなかった、なら何を言っても無駄だ
俺はできないことは約束したくない、嘘は大嫌いだからだ

「けど」と言う言葉は最後の、そして自分にとって唯一とれる抵抗手段だった
だがその後に待つのは「約束を破った嘘つき」という烙印だった。

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