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ミリタリー:WW2ドイツ国防軍戦車大百科1【戦車・駆逐戦車】

2016.09
ドイツ旅行の際に、アニメ『ガールズ&パンツァー』の影響もあってムンスター戦車博物館に立ち寄ってみたのだが、非常に充実した展示だった。特にWW2期のドイツ戦車開発が1939年のソ連侵攻の際のいわゆる「T-34ショック」によって一気に重戦車に傾いていく流れが、実車を目の当たりにしながら理解できるのはワクワクした。
その記録も兼ねて、ムンスター戦車博物館の展示車両を元にWW2期のドイツ国防軍戦車を一挙紹介したいと思う。同博物館にない車両もいくつかあるが、それらは割愛することにする。
なお、同博物館の英語版カタログ(2015年)を参考にしている。


戦争準備期に開発された戦車

第一次世界大戦に敗北したドイツ(プロイセン帝国)は、1919年のヴェルサイユ条約によって軍備に制限を課せられることになり、戦車の開発・生産が禁止された。ただ、そうした状況の中でも農業用トラクターという名目で「履帯をもった不整地走行車両」の開発計画は進められ、戦車開発の技術的素地は保たれていた。
1933年ヒトラーが政権を取ると、1935年には徴兵制復活と再軍備宣言を行なって、公然とヴェルサイユ体制に反旗を翻した。そしてドイツ国防軍は、1939年3月のポーランド侵攻、1940年5月のベネルクス3国とフランスへの侵攻において機動力を活用した電撃戦をやってのけるのだが、それらはこの戦争準備期に生産された戦車を利用して成し遂げられた。

1号戦車

Panzerkampfwagen I
生産年:1934-1941
重量:5.4t
ドイツ再軍備に向けてまず生産された戦車。その開発・生産は1933年のヒトラーの政権獲得後本格化するが、それ以前から農業用トラクターという名目で研究・開発は進められていた。小型軽量の車体に砲ではなく機関銃を搭載するというスタイルは、戦間期の平和を反映してヨーロッパ各国が配備を進めていた流行りでもあった。

1935年の再軍備後の初めての戦車ということもあり、訓練と実績作りという意味合いが大きかった。同年に実施された 軍事演習 "Lehr- und Versuchsübung 35" で戦車の有用性が改めて確かめられ、戦車運用の指針が固められた。

2号戦車はムンスター戦車博物館には展示車両がなかったので割愛

1号・2号戦車で実績を積みながら、次第にサイズも大きくし、搭載火力も増強してくという構想で計画されたのが、次の3号・4号戦車である。

3号戦車

Panzerkampfwagen III
生産年:1936-1943
重量:22.7t
46.5口径3.7cmの砲を備え(後により強力な60口径5.0cm砲を搭載)、ドイツ国防軍の主力となることが期待された戦車。重量も20tクラスになっている。
ただし、ヒトラーの戦争計画が早まったこともあり、1939年のポーランド侵攻や翌年のフランス侵攻では主力と言えるほどまでは数が揃わなかった。

写真のムンスター戦車博物館の展示車両は、後期の60口径5.0cm砲搭載/70mm装甲のもの

前面装甲も初期のA型の14.5mmから増強されていって、最終的には70mm(50mm+20mmの二重装甲)になっている。兵器は実戦に投入されてその結果をフィードバックしながら常に改良されていくものではあるが、それにしても大きく変更されている。主力戦車と言いながら、攻撃力、防御力ともに、実際には貧弱なスペックだったことがわかる。
砲塔の操作員をそれまでの1~2名から3名搭乗に変更して、戦車長による指揮命令系統を強化した運用としたのは画期的だった。
結局開発時の目論見とは裏腹に主力戦車とはなれなかった。

4号戦車

Panzerkampfwagen IV
生産年:1937-1945
重量:23.6t
第二次世界大戦の全期間を通して活躍し、総数8,653両が生産されたドイツ国防軍の主力戦車。1939年~1945年の第二次世界大戦中、ドイツで生産された戦車の台数の約28%は4号戦車が占めていた。3号戦車と同時期に開発され、同じ20t台ではあるが、こちらは7.5cm砲を搭載している。そこそこの火力を持ちバランスの取れた構成が好まれたのだろう。

角ばったフォルムが印象的だ。
アニメ『ガールズ&パンツァー』では主人公の搭乗車となっていて、その意味でも印象深い(細かな型は異なっているが)。

38(t)戦車

Panzerkampfwagen 38(t)
生産年:1938-1942
重量:9.5t
元はチェコ軍が開発を進めていた戦車でLT38/LTvz.38という形式名で1938年から製造が始められたが、同年のチェコ併合によってドイツが獲得した。

tはドイツ語でチェコを表わす Tschechisch の頭文字で、38(t)で「38年チェコ式」の意味になる。ドイツ国防軍の制式戦車に組み入れられて最終的に1,414両が生産された。
1939年のポーランド侵攻と続く1940年のフランス侵攻では、ドイツの電撃戦の重要な戦力として使用された。
10t未満の軽戦車のためすぐに時代遅れとなったが、ドイツ本国の生産力を補う意図もあり、戦車としての生産終了後もシャーシを使って様々な戦闘車両が設計された。

アニメ『ガールズ&パンツァー』ファンにはおなじみ、38(t)のお尻。

T-34ショックと重戦車の開発

1941年6月、ドイツはソ連に対して侵攻を開始するが、そこでドイツ戦車はソ連のT-34やKV-2といった重戦車と遭遇して多くの損害を出してしまう。ドイツ戦車は装甲が薄くてソ連軍戦車の砲弾を受けたらダメージが大きいのに対して、ドイツ戦車の火力が弱いために砲弾がソ連軍戦車に当たってもなかなか装甲を撃ち抜けないという有り様だった。ドイツ国防軍の主力の4号戦車が重量23.6tなのに対して、T-34は34tあって一回りも大きいのだから、当たり前である。絶対的な重量だけでなく、T-34には避弾経始を考慮した傾斜装甲が採り入れられていて、技術力にも差があった。
ポーランド侵攻やフランス侵攻で電撃戦を成功させて向かうところ敵無しだったドイツ戦車は、ここに来て開発思想の転換を迫られてしまう。これがT-34ショックだ。
以後ドイツはT-34に対抗すべく重戦車の開発を推し進めていくことになる。

ムンスター戦車博物館では、ドイツ国防軍戦車の展示コーナーの中に混ざってソ連軍のT-34が展示されていた。何も知らずに見ていた時は謎だったが、T-34ショックを表現するための配置だったのだ。

パンター(5号戦車)

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