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細かい指摘にはビクともしない~「めぐり逢えたら」「めぐり逢い」

男と女。
同じ人間と言えど、やはり両者は異なる世界に住んでいるのだろう。そう思うことがある。
今回の映画も、それを考えさせる作品であった。
1993年「めぐり逢えたら」と1957年「めぐり逢い」

「めぐり逢えたら」は随所に「めぐり逢い」をオマージュするようなシーンが散りばめられている。そもそも邦題は似た感じではあるが、原題を見比べると、
「めぐり逢えたら」”Sleepless in Seatle(シアトルの眠れぬ男)”
「めぐり逢い」”An Affair to Remember(過ぎし日の恋)”
というように全くの別物である。

私は「めぐり逢えたら」から視聴したのだが、こちらで印象に残ったのはメグ・ライアンとロス・マリンジャーという子役だ。

メグ・ライアンは、ザ・90年代という感じがして、見ていて心地よい。こんな時代もあったなぁ、と。いい意味で時代という不自然さをまとっている。

ロス・マリンジャーという子役は、今は残念ながら引退しているという。子どもの演技を上手にできる子役は案外多くないのではないか。今でも日本のドラマで名を上げる子役は少なくないが、いずれも大人の演技を子どもがこまっしゃくれた感じで演じる方が多いように思う。それは小さい大人であって子どもではないのだ。その点、このマリンジャーは秀逸だった。蛇足だが「クレイマー、クレイマー」の子役も素晴らしい。

「めぐり逢い」の方となると、やはりケーリー・グラントに軍配が上がる。顔中から色気があふれ出しているようだ。船上の場面が半分以上を占めていたのは、その色気を描写するあまり時間を必要以上に割いてしまったということか。ニューヨークについてからの描写が思っていたより少なく、終わりがやや性急な感じもした。

いずれもそれぞれの時代を代表する恋愛映画ではあるのだが、よくよく考えてみれば何とも身勝手な話ではないかと思ってしまう。
「めぐり逢えたら」ではメグ・ライアンの婚約者には何の落ち度もない。家族にも紹介し結婚の準備も進めていって、最後の最後にラジオで声を聴いただけの男に攫われたのだから。
「めぐり逢い」にしても、デボラ・カーの婚約者も相当にいい人だ。足が不自由になっても見捨てることなく、下心もなく甲斐甲斐しく世話をして。現代の映画なら彼ももっと恋の駆け引きに参戦していたことだろう。

細かいこといチクチク言うのは野暮とは思いつつ、こういうことを言うのもけっこう楽しかったりするもので。
裏返せば、それだけ作品がしっかりしたものだということでもあるのだ。

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