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入不二基義「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」を読む

はじめに

入不二基義「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」は大森荘蔵生誕100年の特集号である『現代思想 一二月号(2021)』に収められたテキストである。

大森荘蔵は戦後日本を代表する哲学者であり、西洋哲学の受容のみならず、自らの頭で考え抜く姿勢が後世に多くの影響を与えた人物だ。この雑誌の中でも現代の日本を代表する学者によって、数々のエピソードが紹介されている。

ただ、入不二の本テキストは通常の論文として書かれており、脚注の中で大森の哲学に触れているにとどまっている。大森とは直接関係なく、入不二の哲学が開陳されていると言ってもよい。ただ、実は大森らしさを最もよく表しているのかもしれない。大森は常に、他人の哲学ではなく、自分の哲学をしていたと伝えられる。そして、入不二もまた、この特集号で同じことをしてみせたのかもしれない。

さて、論文の内容としては、認識における哲学的問題とそれに対する応答が整理されている。ただし、さまざまな主義が戦う土俵上の整理に終始するのではなく、土俵自体の成立をさらに一歩踏み込んで分析している。土俵の上での闘いに参加するのではなく、土俵そのものの成り立ちを取り出して提示しせてみせるあたりは、哲学者としての力量の証左であるだろう。

※ただ私自身が直近入不二の主著である『現実性の問題』を未読状態であるため、浅い読解になっているかもしれない。

本論文の流れ

「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」というタイトルの通り、最終的には「独現論」という立場が明らかにされる。独現論の「現」は「現実性」の意味をする。独現論に至るプロセスで、懐疑論、検証主義、独我論のそれぞれの主張に中に「現実性への萌芽」を読みとっていく。現実性への萌芽は、「現実性」を中心に据える「独現論」へ続く道として厚遇される。

現実性とは何か?

『現代思想』という雑誌は、もともと哲学・思想に関心がある層に読まれるため、初心者が読むには少しハードルが高いように思える。また、入不二のこの論文は「現実性」とは何かと定義しないまま、「現実性」という言葉を使い始める。終盤でその特徴が垣間見えるが、率直に言って、この論文だけ読んでわかる人は、すでに「現実性」が何かを体験として知っている人か、入不二の議論をよく理解している人だけだろう。ここでは、体験的な描写は避けて、まずは字面だけを並べておこう。
現実性とは、単一で外部がなく、存在し無ではありえない。他者がもっているものではないが、自己がもっているものではなく、むしろ他者と自己はその現実性の中で展開されるものである。内容(言葉で表現される何か)や性質(色や形)をもたず、可能性をさしはさむ隙がなく、むしろ可能性を一意に確定させるものである。細かい点を無視して、あえて言いかえるのならば、「神」あるいは「世界」なのである。

懐疑論

さて、本論に入ろう。まずは懐疑論からだ。
以前のnoteでデカルトの『省察』を紹介したが、内容はほぼこのままだ。

私たちは時に見間違うし、夢と現実を取り違える。だとすると、今実際に存在していると思っているこの世界は丸ごとすべて見間違いや夢かもしれないのではないか。夢から醒めている保証などあるのだろうか。私たちは、自分の心の内部しか認識できないのではないか。外部に世界がちゃんと実在するなんてことがなぜ言えるのだろうか。もしかすると、世界は実在しないのかもしれない。これが外部世界に対する懐疑論だ。

検証主義

懐疑論に対して、検証主義は常識を取り戻す主張を展開する。キーワードは「有意味性」「検証可能性」だ。検証主義者は懐疑論の主張を、「誤っていることにすら到達していない。それ以前に懐疑論は無意味なことを言っている」といって反論する。「無意味」とはどういうことか?検証主義は日常風景に立ち返ってこう主張する。

「私たちは何が実在し、何が実在しないか検証(認識)しながら生活している。蛇に見えたが実は朽ちた縄だったとか、誰かが流した噂ばなしはデタラメだったとか、なんとか。とはいえ、何が見間違いで、何が事実なのか、私たちにとって少なくとも検証(認識)可能でなくてはならない。「実在」するか否かは、私たちの日々の検証にさらされて初めて「真か偽か」決まるものなのだ。意味がある主張(命題)とは、「真か偽か」どちらかである可能性に開かれている主張だ。そもそも検証(認識)できないような対象に関する主張は、実在と非実在を論じる主張としては無意味だ。「外的世界は存在しないかもしれない」という懐疑論の主張は無意味なのだ。」

ここからもっと踏み込むと、もはや「外部世界」は私たちによって概念的に構成され、私たちの経験の内部に組み込まれる(後期の大森の立場)。外部世界と言いながらも、「真」であるとみなされる経験内容や科学的仮説が、独立して外部世界において実在するものとして経験内部に組み込まれていくとみなされる。

懐疑論

さて、懐疑論者は、もちろん検証主義の主義を受け入れない。検証主義の「実在するとは、実在すると認識できることである」「実在するという概念の意味は、認識可能性によって与えられる」という前提自体を受け入れない。対照的に「実在するとは、たとえそう認識できなくとも、実際に存在することである」「実在という概念の内には、認識可能性を超えて実際に存在するという意味まで含まれる」と考える。入不二はこの対立をこのように説明する。

懐疑論側は、検証主義の「認識可能性」を重視する考え方に反対して、(認識可能性を超え出る)「存在可能性」のほうを上位に置く。検証主義が「存在するとは、存在すると認識できることである」と考えるのに対して、懐疑論は「存在するとは、たとえ存在すると認識できなくとも、存在しうることである」と考える。懐疑論は「概念の拡張」を認めることによって、検証主義に対して反論している。(92頁)

可能性の文脈

ここからは、入不二の独自の考察が展開され、独現論へと続いていく。
入不二は懐疑論も検証主義もどちらも可能性の文脈に浸されていると言う。入不二の分類ではないが、この論文を読み解くと、二つに分けられる(入不二はこの二つの関係性をどのように捉えているのだろう?)。

①:懐疑論は「外的世界は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない」と主張するが、この「かもしれない」はまさに可能性であり、肯定・否定のどちらかに断定することができない。
一方検証主義においても、「私たちの経験が検証の可能性に開かれており、真or偽の断定や事後的な訂正ができる」という意味で、検証主義の基本テーゼの上でも重要役割を担っているのである。

②:入不二はこの論争は「実在」の意味を土俵に戦う意味論的な攻防であるという。懐疑論は「(認識に依拠しない)存在」を「実在」の意味の中心にすえ、検証主義は「認識」を意味の中心にすえ、どちらの前提がより優位であるかをめぐる攻防なのだ。
そして、「実在」の意味論的な土俵上で、「存在」を優位にしても「実在」の意味は機能することが可能なのか、「認識」を優位にして機能することが可能なのか。意味のとりうる可能性をめぐる攻防なのだという。

※ここでは「可能」という単語が多義的に使われている。だからこそ入不二は可能性の「文脈」という曖昧な語を使っているように思われる。これを明解にすることで「現実性の萌芽」の特徴をうまく抽出できるかもしれないが、ここで論じる力は私にはまだない。

現実性の萌芽

可能性を語る文脈には、対比的な現実性がつきまとう。入不二は可能性の文脈からはみ出そうとする「現実性の萌芽」を懐疑論、検証主義の双方から読み取る。

懐疑論では萌芽は二つある。

一つ目はデカルトの「コギト(われ思う)」である。「外部世界を知ることができるのだろうか?」という疑いの裏には、疑うことそのものが疑いのない確実な存在(コギト)が、いわば問いを成り立たせる絶対的な基盤として働いている。コギトは存在しない可能性がない。「まさに現に存在する=現実性」をもっている。外部世界は未確定のまま可能性に浸されているが、疑いそのものは可能性から免れる。かえって、鮮明に現に存在するものとして、対比的に現れるのだ。コギトという認識の主体であるが、存在の主体でもあるのだ。疑っているさなかでは、認識と存在がぴったりと癒着しており、外部世界とは違って、存在しない可能性も誤認する可能性も排除されている。

二つ目は、懐疑論の主張に含まれる「実は」「本当は」(really)という副詞的な表現で見いだされる。懐疑論は、素朴に外部世界の実在を信じている常識に向かって、「外部世界が実在する」可能性と同時に、「外部世界が実在しない」可能性開陳する。そして、「外部世界が実在しない可能性」を強調して(入不二の表現では、「非実在に真理性が賭けられることによって」)、対比的に現実性を指し示そうとしているのだ。コギト(現実性の萌芽)の現実性から、現実ではない外部世界の不確実性を強調する形で働いている。

また、検証主義における現実性の萌芽は、正誤の判定を実行する最終審級としての認識の「真理性」の保証にある。正誤判定される経験内容はもちろん誤る可能性に浸っているが、正誤判定そのものが誤る可能性はない。そうでなければ正誤判定自体が成り立たないからだ。

このように、入不二は懐疑論も検証主義も「真理性に傾きを与えようとする」と述べる。

真理性と現実性


入不二は「真理性は現実性と同じではない(96頁)」と述べる。だが、もし、懐疑論と検証主義が根底でもっている前提が「真理性」によって担保されるものだと仮定するのであれば、私は「この真理性は現実性の萌芽と同じである」と積極的に主張するべきだと思う。もちろんその担保を「真理性」と呼ばないのであれば、単純に「現実性の萌芽」と呼べばよいと思う。
例えば、1+1=2や、三段論法の真理性は確かに現実性とは関係ないだろう。これらの真理性は、現実性の萌芽の有無によらず独立して成立するからだ。だから、現実性が成立していない純然たる「B系列」的な世界があったとしても、これらの真理性は確保されるだろう。だが、懐疑論のコギトの「確かさ」や、検証主義の認識の「正しさ」(正誤判定を実行する最終審級としての認識)の真理性は、私(私のコギト)や他人(他人のコギト)が現実性の萌芽をとらえることで正当化される。コギトには「存在の水準と認識の水準はぴったり一体化して癒着していて、そのあいだに「ずれ」の余地はない(95頁)」のだ。

例えば、入不二は「検証主義において「真理性」を保証するのは、「正しい認識が可能でなければならない」という超越論的な審級である(96頁)」と言う。なぜ「正しい認識が可能でなければならない」のか。なぜ正しい認識が、超越論的でかつ、これ以上根拠を問えないような「最終審級」なのか。その理由は、認識が現実性の萌芽と完全に一致して分離できないからだろう。何はともあれ世界がそこから開かれている「現実」において、認識することは現実が存在することと同義であり、相即不離だからだ。カントの超越論的認識論のアイディアの基礎でもあるだろう。この認識は「誤りへと転落する可能性を持つことができない(97頁)」のだ。大森荘蔵が検証主義的な立場を取ったのもこれが理由であろう。立ち現われにおいて「存在とは認識すること」なのだ。検証主義は複数のコギトが行う超越論的な認識が支えている。入不二の表現を引けば、検証主義は「独我々論(100頁)」なのである。

もし、検証主義が「独我々論」であれば、検証主義の超越論的認識の根拠は、独我論の「自分の心が存在する唯一のものである(実際にそうだ)」という「断言」と根は同じだろう。入不二は「断言(実際にこうだ)」は「知の形式ではない(98頁)」と述べる。検証主義の認識の真理性も実はこの「断言(実際にこう認識している)」によって担保されるものだろう。

さて、懐疑論の真理性への傾きについては、シンプルな動機が与えられるだろう。入不二の表現ではないが、懐疑論の真理性は「もしコギトの外部に世界があるのだとしたら」という想定のもとに構築される。コギトが確実な存在で、その外側を想定するのであれば、その存在の確からしさがコギトに比べて劣ることは避けれられない。素朴な実在論を破壊する意図をもった懐疑論は「あるかもしれないし、ないかもしれない」という両方の可能性のうち、「ないかもしれない」を強調することで「あるに決まっている」という実在論の臆見(ドクサ)を破ろうと試みる。この「ないかもしれない」という不確定性の裏には、現実性がもつ確実性が働いて対比構造を作り出している。

検証主義や懐疑論の真理性は、裏から現実性によって支えられている。言ってみれば、これらの真理性は現実性の萌芽によってその真理なる力(正しさ、確かさ)の供給を受けている。検証主義・認識的な文脈である「昨日雨が降ったか否か」や、懐疑論・存在的な文脈である「外界は存在するのか」などの問いを発する際、所与的にすでに存在している現実性の萌芽こそが、その問いを正当化する基盤としての役割を担っている。認識とはいえ「存在するか否か」をめぐる攻防においては、「真理」と「現実」は一致する。

独我論

すでに先取りしてしまったが、独我論における現実性の萌芽は一体なにであろうか。入不二は独我論の「自分の心が存在する唯一のものである(実際にそうだ)」のうち「実際にそうだ」の部分を、懐疑論におけるコギトと対照的に、可能性の文脈から外れるための「現実性」を捉えるものだとして「好遇」できるという。

独我論は懐疑論の延長線上に位置する。だが、独我論的な「自分の心が存在する唯一のものである(実際にそうだ)」と懐疑論的な「疑っても疑いきれないコギト(われ思う)が存在する」はどの程度異なる主張なのだろうか。

懐疑論は外界の存在を疑い、コギトだけが確実に存在するといい、外界の存在については判断を保留する。一方、独我論は自分の心のみが存在すると主張する。認識の確実さの枠組みからすれば、独我論は抑制のきいていない独断的な主張に聞こえるだろう。だが、独我論の動機を探ることは「現実性」に至るためのヒントになる。

独我論の主張は「断言」であるが、懐疑論における「コギト」の疑いえない存在の確実さと同種の主張である。だが、懐疑論の「コギト」には可能性の文脈がつきまとっており、まだ現実性そのものには至っていないと入不二はいう。これはどういうことだろうか。

例えば、コギトを発見したデカルトは、コギトの確実性を「我思う、そのたびごとに真」と述べるが、この主張を少しくどく説明をすると「過去あるいは未来で我思うことがあれば、そのたびごとに真」という意味になる。つまり、現在ではない過去や未来のコギトの確実性をも担保できると言っているのである。
対して、独我論はこの「そのつど性」を振り払って、「まさにいま私のこの思いが存在する」と断言するのだ。過去も未来も言及しない、ただ存在するのはいままさに私が思っていること、ただそれだけなのだ。

独現論へ

入不二は現実性の萌芽をそれぞれの主義に見出していったが、あくまで萌芽に過ぎず、現実性そのものではない。懐疑論は現実性を起点に「あるかもしれないし、ないかもしれない」と主張するが、現実性は「実は・本当は」を目指すのではなく、複数の可能性間の比較でもなく、真理のように内容に基づくものでもない。また、検証主義的における超越論的な認識も現実性を起点に絶対視されるが、現実性は本来「検証」という機能的な内容も持たない。

また、現実性は人称性や主体性を(理念的にであっても)帰属させることはできない。「「現に」という現実性は、没人称的で没主体的(102頁)」なのである。
さらには懐疑論的なコギトでさえも、コギト自身の時間を通じた可能性を呼び込み「そのつど」の真理性を読み込んでしまうが、独我論はこれを拒否し「いまこの瞬間のみの我思う」と現在に確実性を絞り込む。

ただ、独我論もまだ夾雑物が残っている。それは「「私の心」「思い」そして、「絞り込み」の部分である(102頁)」。独我論からこれらを取り除いたとき、もはや独「我」論とは呼べない。それは「独現論」なのだ。

独我論は「私の心のこの思いのみが実在である」と断言するが、独現論は「現実性がすべてであり、その働きに外はない」と断言する。(102頁)

総括と所感

「現実性」を理解していない(あるいは知らない)人が、この論文を読むのは苦痛ですらあるかもしれない。「現実性」の意味は、ないないづくしである。内容も、性質も、人称も、時制も、ない。一方で、絶対的で、外部がなく、単に存在するあるあるづくしでもある。ただ、いったいそれが「何であるのか」の説明は性質上与えられることはない。
例えば、可能世界意味論において、複数の可能世界のうち、特定の可能世界を可能性から現実世界に昇格させるものは、「現実」である。だが、昇格するにあたって、その世界に何らかの内容や性質が付け加わることはない。その世界は構造をまったく変えることなく可能世界から、現実世界になるのだ。「現実性」は内容をもたない空虚なものである。
ただ、「現実性」を理解できると、この世界の秘密がいっそう理解できるようになるのは本当である。「何であるのか」という内容だけが、この世界を特徴づける要素ではないからだ。

思うに、入不二は「現実性」をわかりやすく説明する気は実はあまりなく、すでに「現実性」を何らかの形で理解している人に対してこの論文を書いたのではないか。そして、様々な一般的な主義主張の中に、現実性の萌芽が宿り、根底には純粋な「現実性」が控えていると主張している。一般的な主義主張を「上位」ととらえると、現実性は基盤的な「下位」ということになる。図示すると以下の通り。

議論のベクトルを逆転させて、独現論から議論を組み上げて、それぞれの主義・主張に「現実性の萌芽」を読み取っていくこともできると思うが、それはおそらく「現実性」からこの世界の構造を発生論的・超越論的に組み上げていくことになるだろう。「現実性」という不毛の大地から、他者と私を作り、外界の認識を作り出していくようなものになるだろう。そして、それは実は大森荘蔵がやろうとしていたこと、なのかもしれない。

参考文献:『現代思想 一二月号』(2021) 青土社
入不二基義「懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ」

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