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子どもに嫌われるための哲学~道徳編①~

先生:では、今日の道徳の授業はここまでです。この物語を読んだみんなの意見をまとめると、サボらずに努力して周囲に貢献することで信頼を得ることができて、みんなも助けてくれるし友達もできる、ということでいいですか?

生徒:先生!質問があります!私と友達になってくれる人は、私がその人に何かを与えたからなのでしょうか?それはあまりに打算的ではないでしょうか?友達というのはギブアンドテイクの関係ではなく、純粋な友情というものがあると思うのですが!

先生:なるほど。純粋な友情、をどう定義するかによって話は変わりますが、それはどのようなものですか?

生徒:条件付きのものではなく、無条件の気持ちだと思います。例えば、親子の関係はそう言えますよね?

先生:まず、無条件の人間関係などは存在しません。愛情や友情には必ず条件があります。それは親子関係であってもです。おびただしい数の他人と自分の子どもを選り分けて愛を与えられる理由が必ず存在します。これは友情であっても同じことです。もし、無条件だとしたら万人を分け隔てなく同じレベルで愛せなくてはなりませんが、そんな人間は存在しないか、存在してもかなり珍しいでしょう。そして、あなたはそう珍しい人間ではないと思いますが。

生徒:そうだとしても、ギブアンドテイクではない関係もあると思います。親子関係はギブアンドテイクではないでしょう。

先生:それは否定しません。親子は星の数ほどいるので例外もありますが、通常の親子関係の成立条件は恋愛や友情などとは異なり、親が子を愛せるから、とか、子が親を愛せるから関係を結ぶというものではなく、すでに親子関係があるから愛情が生まれる、という逆順の理由が正しいと想像します。この人間関係は、子供が生まれた時点で必然的に存在します。誰でも親から生まれるからです。もちろん、関係があることと愛情があることに必然性はないですが。

でも、誰しも自分に貢献する人に好感を持つものです。たとえ親子であっても、親に好感を与える子どもが、そうでない子どもよりも好かれるのは当たり前だし、逆に子どもに好感を与える親がより好かれるのも当たり前のことではないでしょうか。例えば、好感を与える能力だけが異なるが、他の特徴がまったく同じ双子がいたら、親はどちらをより愛せると思いますか?ましてや、親子関係とは異なり、友人関係は誰とでも分け隔てなく成立するわけでなく“選り好み”をするでしょう。その選別の指標は、その人がもっている能力やルックスも含めた性質、性格、バックグラウンドなどでしょう。それらを総称して“人格”と呼ぶことにして、あなたがある人とは友人関係となり、他の人とはそうならない理由は、“人格”に帰すべきでしょう。今日の授業で学んだように、あなたが努力できる人間であることは、あなたの“人格”をよいものにする一つの要素になりうるのです。

生徒:では、まったく貢献できず、価値も生み出せない人間は愛情を得られないのでしょうか?例えば、生まれながらにして障害があり、努力はおろか身体も動かせず、愛嬌もなく、蝋人形のようにただじっと固まって食事や排せつの世話をされるだけの存在にどんな価値があるのでしょうか。

先生:私は無条件の愛情を否定しているわけではありませんので、価値が“ありえない”とは言いません。そういった人間が、例えば親に愛される可能性は十分にあります。ただ、相対的に見れば、他の人より魅力的で友達にしたいという感情が湧かないのも当然のことだと思います。残酷な事実ですが、多くの人は“選り好み”をします。もし、“選り好み”をしないというのであれば、そういった人生もいいでしょう。ただ、その場合でも、あなたはあなた自身のリソース的な制約のため、真の意味で万人を平等に愛することはできないのですが。あなたは今、日本にいて、有限の時間と体力と資金力と政治力しか持ちませんので。

道徳の教材やよくネットに落ちている学習指導案は、その目的を議論ではなく啓蒙としているため、“雑”な論旨が多いですが、完全に間違っているともなかなか言い難いものなのですよ。


※参考文献

『「母と子」という病』高橋和巳 ちくま新書(2016)

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