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ファム・ファタール/トレーシー・ソーン Femme Fatale / Tracey Thorn

上京して最初に住んだアパートは、駅から歩いて20分、4畳半にキッチンがついてトイレは共同、風呂は当然無かった。
木造2階建てで、廊下の幅が1間あって広く、ピカピカに光っていた。
大家さんが毎日綺麗に雑巾がけをしてくれていた。
2階の角部屋だったが南西を向いていたので西日が差して夕方はすごく眩しかった。
渋谷から数駅の場所だったが、とにかく駅からアパートまで遠くて難儀した。
駅までの通り道に2つほど坂道を超えなければならない。
自転車でその坂を超えるのが苦痛だった。
雨の日はさらにその道のりを歩いていかなければならない。
駅につくまでにビショビショになるのだった。

銭湯は2つあったがどちらもアパートから10分ぐらい歩いたところにあって、帰って来るまでに汗をかいた。

家賃は月1万8千円。
当時はもちろん消費税など無い。

俺は寝袋と小さな白黒テレビ、小さなちゃぶ台。卓上ライト。ラジカセ。ギター。最小限の調理道具と食器。学校の教材と自転車だけ持って行った。
後になって仕送りの中から少しづつ工面して布団を買い、炊飯器を買い、レコードプレイヤーを買い、7万円で電話をひいた。
東京で暮らし始める嬉しさで、不自由などは感じているヒマがなかった。

最初の年の夏は、うだるような暑さだった。
パンクの嵐はとうに過ぎ去っていて、ニューウエーヴの音楽が主流だったが、中でも話題になっていたネオ・アコースティックのアルバムを買ってきて聴いた。
飾り気のないギターの伴奏に合わせてトレーシー・ソーンの物憂げな、けだるい声が流れた。
その声は飛び切り暑かった夏の四畳半に差し込む、眩しい西日にとても良く似合っていた。

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